「必要な議論を飛ばして表現規制で全ての問題を解決しようとしている」“青少年健全育成基本法”の議論が抱える、そもそもの問題点とは【山田太郎と考える「表現規制問題」第5回】
マンガやアニメなど「表現の自由」を守る活動に取り組む「表現の自由を守る会」の山田太郎氏を案内人として、「著作権の非親告罪」「有害図書指定」「国連勧告」「児童ポルノ禁止法改正」など表現規制のアジェンダを考える連続企画(全5回)。
第5回目は、『表現規制の歴史~過去「風と木の詩」から未来「青少年健全育成法」まで~』をテーマに、規制の原初にメスを入れる。ゲストに、表現の自由や文化的衝突をめぐる憲法問題への造詣が深い武蔵野美術大学教授・志田陽子先生をお迎えし、女性から見た表現規制、そして憲法的解釈から見た規制の問題点を鋭く分析していきます。
全5回にわたってお送りしてきたこのシリーズも、ついに最終章。山田氏をはじめ、表現規制問題を考え続けてきた有志たちが憂慮する日本の表現の未来はどうなっていくのか? 青少年健全育成法が施行される日は本当に来るのか?
「この国で何が行われているのかを知る」。それこそが僕らが表現問題に立ち向かうための、はじめの一歩となるに違いない。
・「なんとなくヤバそう」で漫画もフィギュアも写真集もダメ!? 表現の世界に吹き荒れる「自主規制」の問題【山田太郎と考える「表現規制問題」第4回】
マンガにおける表現規制はどこから始まったのか
智恵莉:
今日は“表現規制の歴史”ということで、過去は『風と木の詩』から、そして近い将来の話として“青少年健全育成法”までお話をしていきたいと思います。まず最初に、「コンテンツ表現規制の体系」というところから、山田さんにお話をしていただければと思います。
山田:
今日を入れて5回にわたり色々な表現規制に関する議論をしてきました。第5回目は、これまでどんなことを語ってきたのかまとめつつ、コンテンツの中身についても議論していければと思ってます。
本日は、この方面では非常に詳しい憲法学者でもあり、最近は「AV業界改革有識者委員会」を立ち上げられました志田陽子先生にゲストとして参加していただきますので、その点も踏まえながらお話もしていければと。5回目にして初の女性ゲストですから、女性という立場から見た表現規制の動向についても議論していければと思っています。
志田:
よろしくお願い致します。
山田:
本日は表現規制の歴史ということで、どこからが表現規制だったのか、あるいは表現規制にあたる作品というものはどんなところから始まっているのか……ということを、竹宮惠子先生の『風と木の詩』(1976~1984)というマンガを取り上げながら説明していこうと思います。
いかに竹宮先生が大変な思いをしてこの作品を世に送り出したのか振り返りつつ、その点を踏まえ“青少年健全育成基本法”が施行されるではないか? という話を進められればと思います。
まず、智恵莉さん?
智恵莉:
はい?
山田:
竹宮惠子さんってご存知ですか?
智恵莉:
申し訳ないのですが……(汗)。
山田:
えっ、知らないんですか?
智恵莉:
はい、読んだことがなくて……。
山田:
志田先生はどうですか?
志田:
年齢がバレるのであまり言いたくないのですが……高校生の頃に読んでいました(笑)。
山田:
ふふふ(笑)。
志田:
ちょうど単行本が出た頃で、クラスメイトと貸し合って回し読みをしていたくらいです。
山田:
へぇ~! 『風と木の詩』は読まれました?
志田:
読みましたね。
少女漫画の金字塔『風と木の詩』で描かれた過激な表現&タブー
山田:
なるほど。『風と木の詩』を簡単に説明しますと、1976年に連載が始まり、竹宮先生が26歳の頃にスタートした作品になります。19世紀のフランス寄宿学校を舞台に、裸で横たわる少年2人の絵で始まるという、割とセンセーショナルなマンガでした。なにゆえセンセーショナルだったかと言うと、今もまだまだタブーと言われているような内容を当時、随分取り上げていたんですね。
智恵莉:
ふむふむ。
山田:
1970年代初めまで、日本の少女マンガと言えば普通に女の子同士が恋愛や家族の話をするという内容に限られていました。
そういう状況下ですから、例えば愛し合う大人同士のキスシーンですら過激な扱いになるわけです。ベッドの上で重なり合う手と手、きらめく蝋燭の炎、朝になって聞こえる小鳥のさえずり……そういったあたりが当時マンガに描けるギリギリのラインだったのですが、『風と木の詩』では性行為だけでなく強姦や近親相姦、わずか9歳の男の子が被害に遭うという場面も出てくるため、それはセンセーショナルだったわけです。
今で言う“BL”的な内容も含まれていたマンガが1976年に発表される……志田先生、実際に読まれたときの感想はどのような感じだったのでしょうか?
志田:
ドキドキしながら読んでいましたね(笑)。ただタブーという感じではなくて、本当に興味津々で読んでいたという気持ちでした。特に、内面の表現というんですかね……幼い男の子が主な登場人物でありながら、愛憎が心の中でどう渦巻いているのかというところの表現が本当に素晴らしいんですよ。そういう内面の感性の豊かさは、それまでの少女漫画にはなかった“迫るもの”があったので、私はそこに引き込まれて読んでいたんですよね。
正直言うと、まだ私自身が高校生だったこともあって、少年が性的虐待に遭っているシーンへの意識はちょっと低かったかなぁと。後になって、その意味合いがわかってきた……というのが当時の実感でしょうか。
山田:
今もこういった作品が出版されると、「真似して青少年をいたぶる輩がいるんじゃないか」と言って禁止したほうがいい! みたいなことになりかねないわけですが、それに対して竹宮先生はきちんと答えているんです。「事実としてそういうこともある」「そこから立ち直った子たちだっているということも描きたかった」と。竹宮先生はすごいんですよ。
智恵莉:
なるほど。
山田:
竹宮先生は、色々な作品を出してきたけど、自分が本当に出したかったのはこういう作品だった、と。力や名誉をつけた後でないと、おそらく『風と木の詩』のような作品を描いても拒否されるだろうということで、物語の着想から実際の連載開始まで6年を費やしたという……おそらくは竹宮先生の作家人生をかけて命がけで出した作品なんですね。この作品が新しい扉を開かせたのは事実であり、まさに新時代を予感させる作品になったわけです。ただ、当然、様々なことが起り始めるんですね。
新しい扉が開かれるとき、必ず規制という魔の手も迫る
智恵莉:
反響が大きい分、良くない声も聞こえてくるというか。
山田:
(頷く)。それ以前の流れをまとめると、1965年に石ノ森章太郎先生が『マンガ家入門』という作品を出すことで、二つの系譜が現れてきます。一つは竹宮惠子先生であり、もう一つが永井豪先生。
前回も取り上げましたが、まさに『ハレンチ学園』がセンセーショナルな作品となるわけです。“モーレツごっこ”とか“スカートめくり”などで随分と批判されるようになっていくわけです。『ハレンチ学園』では、小学生女子生徒の裸が描かれていたり、まだまだ先生は偉いという存在だったにも関わらず、教師批判のような描写があったりと大きな反響を巻き起こしていくようになります。
そんななか三重県で、「青少年はこの作品を読んじゃいかん!」という声が広がっていくようになります。
一方で、ジョージ秋山先生が『阿修羅』という作品を出します。この作品はエロが問題視されたわけではなく、飢餓で人間を食べる極限描写があったため神奈川県では有害図書指定されることになります。
1950~60年代にかけて、それまでの社会通念やタブーを破るようなマンガ・アニメ・ゲーム、特にマンガが登場するようになったことで表現の自由が問題視されていくようになるわけですね。
智恵莉:
はい。
山田:
その最たる例が“悪書追放運動”です。このあたりのお話は第4回目『自主規制の問題』で詳しく取り上げていますので、今回は少しだけおさらいしたいと思いますが、母の会連合会を筆頭に1954年に約6万冊の雑誌やマンガを焚書にしていくという運動が行われるようになりました。1955年には、『鉄腕アトム』が荒唐無稽だと批判されるのですが、1957年に人工衛星スプートニクが打ち上げられ、有人飛行が始まる……まったく荒唐無稽でも何でもないことが明らかになったわけで、アトムを批判した大学の先生はどう説明したんでしょうね(笑)。
ちなみに当時、PTAなどから推奨されたマンガは親孝行を題材にするとの理由から『赤胴鈴之助』などの作品でした。63年頃になると、“白ポスト”(こちらも詳しくは第4回目で説明)が登場します。まぁ~とにかく悪書追放が積極的に行われていくようになる。
智恵莉:
すごいですよね(苦笑)。
山田:
読み手も書き手も新しい世界が切り拓かれていくと同時に、非常に大きな規制の流れが始まったのもだいたいこの時期。そのような状況下で、極めつけの作品として竹宮先生の『風と木の詩』が登場した……というわけですね。現在、LGBTの議論が盛んに話題になりますが、この作品は今見ても新しい内容を含んでいると思います。
実在しないから“非実在青少年”であって、何を規制するというのか!?
山田:
さて、東京都が非実在青少年を規制しようということで、いよいよ都道府県単位で規制が開始されるのも時間の問題と言われています。非常に大きな議論になることが予想され、2010年の改正案ではこの画面にあるように……
山田:
“年齢又は服装、所持品、学年、背景その他の人の年齢を想起させる事項の表示又は音声による描写から十八歳未満として表現されていると認識されるもの”云々ということで……要は「“非実在青少年”と言われるジャンルを作って、そういうものが描かれているマンガ・アニメなどを含めた性交類に関することは全部ダメですよ」と。
もし、これが2010年当時に立法化されていたら、大変なことになっていた! ということで、多くの漫画家や文化人が反対運動を起こしていくんですね。私は、このときは議員をやっていなかったので、直接反対運動に関わっていなかったのですが、志田先生はこのあたりの表現規制の出来事に関してどんな感想をお持ちでしょうか?
志田:
架空の表現に対して規制をするということは、それまでの規制の必要性の議論とはかなり違います。被写体の被害は、はっきりとした人権侵害ですから、被写体に被害が及ばないように……という話は随分昔からあったんですよね。
児童ポルノもそうですが、被写体にまだ自己決定能力がないにもかかわらず、よく分からないまま児童ポルノに出演してしまって、その後の人生が歪められてしまうという問題。
これはきちんと考えなければいけない問題ですが、そういった被害がないマンガやアニメを規制するとなると、これが実際に社会に悪影響を及ぼすのか? それとも、「見たくない」という思いを持つ人に対応する形で、どうしても目に入らないように社会から退場してほしいという願いがとても強く出たものなのか? 一体、どっちなんだろう、と。
山田:
なるほど。
志田:
もし“見たくない人”の“見たくない自由”をしっかりしてくださいという筋であれば、表現規制ではなくゾーニングなどの別の方法でもっと丁寧に探って、対応できるはずです。
一つに、「子どもに見せてはいけない」「子どもには見せられないものだから」という議論が有力になりましたよね。当時の石原都知事もそういう言い方でこの規制を通したということを語っていましたが、“子どもに見せないようにしたい親の自由”ということに対しても、おそらくいろいろと丁寧に探っていけば表現規制ではないやり方で守ることができるのでないか? そこをもっと十分に議論したんだろうか?
そこを話し合った上で、表現規制そのものに議論が及ばなければおかしいのではないかと思いますね。
智恵莉:
はい。
志田:
ところが、法律の話になってしまうのですが、日本の裁判例ではわいせつ表現や性的な意味合いのある有害表現というのは、目的に対して行き過ぎたキツい規制手段になっていることを、丁寧に見ていくことをしないんですよ。
“保護されない言論”という言い方をするのですが、アメリカの判例の影響も受けていて、わいせつ物を規制したい側の裁量に委ねて、あまり厳格に裁判で審査しないという考え方を取ってしまっている。
山田:
う~ん。
志田:
どうやら日本もその部分をなんとなく受け入れているようで、目的に対して噛み合っていないところはないですか? というところを、もっと丁寧に議論してほしいということをずっと思っていたんですね。
もう一つ気になったのは、当時の石原都知事が、「これは業者の流通を規制するもの(=経済規制)であって表現規制ではない」と言い切っていたのですが、私は違和感や無理があると思いました。
表現者は人に届けてナンボですから、その間に入る流通を規制するということは、やはり表現規制の一つのやり方です。「表現規制ではない」という言い方はできないはずだと当時から思っていたんですよ。
山田:
石原さんだって、『太陽の季節』の作家としてエログロ暴力系だったのにね?(笑) 散々そういうものを描いてきた人なのに、やっぱり為政者になると変わるもんなのですかね?(苦笑)
志田:
そうかもしれないですね(苦笑)。
智恵莉:
コメントで「小説はアリ」と書かれていましたけど……(笑)。
山田:
『太陽の季節』は映画にもなってるじゃないか!(笑)