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「お前、頭デカいな!」関智一が声優を目指したきっかけは友達からの一言だった――『鬼滅の刃』『PSYCHO-PASS』…話題作に出演してきた彼が語る“人生における3つの分岐点”

 「0.6%」

 毎年、約3万人が声優を目指して専門学校や養成所にやってくるという。しかし、事務所に所属できるのは200人程度。確率にしてたった0.6%だ。
 運良く事務所に所属しても有名作品に選ばれるには、さらに厳しい競争が待っているし人気声優と呼ばれるようになっても安心はできない。
 「いつか売れなくなる恐怖」というプレッシャーと戦い続けなければならないからだ。

 ニコニコニュースオリジナルで連載中の、人気声優たちが辿ってきたターニング・ポイントを掘り下げる連載企画、人生における「3つの分岐点」
 これまでに、大塚明夫さん三森すずこさん中田譲治さん小倉唯さん堀江由衣さんファイルーズあいさん石原夏織さん三石琴乃さん平野綾さん日髙のり子さん小松未可子さんのインタビューを実施してきた。

 今回スポットライトを当てるのは、『PSYCHO-PASS』など多くの話題作で主役に選ばれ、『ドラえもん』スネ夫役を2005年から演じている声優・関智一さんだ。

 インタビュー中、関さんはスネ夫役に選ばれた当時の心境をこう語った。

 「少なくともそれに出ているあいだは声優でいられるわけですから、“助かったな”という気持ちがありました。」「“旬”の枠から外れたときに、自分は商いをしていけるのか? という恐怖があったんです」。

 若手時代から現在進行形で人気キャラクターを演じ続け、スタジオの外では自身が旗揚げした劇団を率いてきた誰もが認める人気声優である関さんだが、誠実な偽らざる本音がそこにはあった。冒頭で紹介した声優業界の競争事情は、他ならない関智一さんの自著『声優に死す』で自身が語っている事柄だ。

 自身が声優を目指したきっかけや、劇団の旗揚げ、周囲に漏らすことのなかった人気絶頂のタイミングでの世代交代への葛藤……それでもなぜ、関智一は声優の道を進み続けるのか?
 彼の半生に迫るインタビュー。ぜひ最後まで読んでいただけると幸いだ。

文/前田久(前Q)
編集/田畑光一(トロピカル田畑)
撮影/金澤正平


■分岐点1:友達の一言がきっかけで人前に出るのが恥ずかしく……。

――関さんの人生で、最初の分岐点というと、どの瞬間になるのでしょう?

関:
 そうですねえ……小学校4、5年くらいのときだったと思うんですけど、友達が「お前、頭デカいな!」って言ってきたんですよ。それまではあんまりそういう自覚がなかったんですよね。
 で、ああそうか、デカいんだ……って思って、ショックを受けたのが最初の分岐点ですかね(笑)。

――意外なお答えです(笑)。そこから、どう人生が分岐していったんですか?

関:
 その前はほんのりと、人前で何かをやることは楽しいなって、無邪気に思っていたんです。
 でも「頭デカい」と言われたことが、意外なほどショックだったんですよね。
 当時の考え方ですけど、ブサイクの分類に入れられてしまったと思った。となると、テレビにはもう出られないんだな……みたいな。

――ご著書を拝読すると、幼少期からジュリー(沢田研二さん)のモノマネをしておられたとか。

関:
 そうですね。幼稚園生くらいの頃。そのあとも、テレビドラマに出てみたいなと思ったり、人前で何かをやることにはずっと興味があって。
 小学校でお楽しみ会みたいなの、あるじゃないですか? みんなで出し物を考えて、見せ合って、楽しもうよ……みたいな会。そこでも、寸劇を作ってやったりしましたね。

関:
 友達がそれを楽しんでくれて、反応があると、気を良くしてた。そこで自己肯定感が高められていたというか。そうした経験が出発点になって、テレビに出たいと考えるようになった気がします。
 それが友達に「頭デカい」と言われたことで、急に人前に出るのが恥ずかしくなってしまった。

――繊細な少年だったんですね。

関:
 しかも、その一言だけだったら、まだそこまで気にしなかったかもしれないんですけど、中学校が学帽を被る学校だったんです。
 それで頭を測ったら、普通の大きさの帽子じゃ入らなかった。一番大きいやつでギリギリ。現実を突きつけてきたな……と。中学3年生くらいまで、頭の大きさのことは、気にしていましたね。
 で、そこから、声だけだったら顔は画面に出ないから、いいか……みたいな考え方に辿り着くんです。言われてすぐではないんですけど。声優として、番組の裏方としてお芝居をする道もあるのか、と。

――ああ、そう繋がるんですね。

関:
 そう。だから声優の仕事に興味を持つ、ひとつのきっかけにはなったという意味で、その瞬間が分岐点なんです。

■「普通じゃない職業に就きたい」

――そもそも「声優」という存在を意識したきっかけは覚えています?

関: 
 そんなにはっきりは覚えてないですね。「誰かが声をやっているんだろうな」くらいです。僕が子供の頃は、まだ声優ブームって感じではなくて。アニメブームはありましたけど、そのときは声優さんがフィーチャーされることはあまりなかったと思います。漠然と意識していた感じでした。
 「誰かが声をやっている」とは思いつつも、「そういう声をやる職業の人がいっぱいいる」ってところまでは考えが及んでいなかったというか。

――具体的な進路として意識された瞬間はどうだったのでしょう?

関: 
 学校に行って、普通に生活しているのがつまんなくて……別にいじめられたり、いじめたりみたいな、極端な理由があったわけではなかったんですけど、「なんかつまんないな」と毎日思っていたんです。
 このまま大人になって、会社に通って、同じような仕事をずっとやる、学校の延長みたいな感じがずっと続くのかな……と思ったら、いたたまれない気持ちになりまして。
 「そうじゃないことをしたいなあ」と感じたんですよ。そのときに、なんとなく声優……お芝居をする人になるのはどうかな? と思うようになった。もしくはマンガ家になろうと(笑)。

――ずいぶんギャップのある選択肢のような?(笑)

関:  
 ようするに、子供の夢、一度は憧れるような、普通じゃない職業に就きたかったわけです。
 そんなことを中3くらいから思い始めた感じですね。で、高1のときには早速、声優の養成所に入ることになります。

――10代そこそこで、いわゆる普通のサラリーマンみたいな仕事をしたくないとふっと思われて、すんなり実行できるのがスゴいです。

関: 
 うーん、でも、みんな、一回くらいは「普通じゃない職業に就きたい」って思うんじゃないのかな? そんなことないんですかね?

――思っても、なんとなく高校生になって、現実が見えてきて、その先の進路も考えていくうちにぼんやりと忘れていく……みたいな方が多いのかな、と。

関: 
 そうかぁ。あれかな、僕、子役をやっている同級生がいたんですよ。その子、撮影を理由にちょくちょく学校を休んでいたんです。そういうのも羨ましいと思っていたからかもしれません。
 学校に行かない大義名分ができる! と(笑)。今考えると、休みたいというより、何かそうやって特別扱いされているのが羨ましかったのはありますね。

――ご両親や親戚には、いわゆる会社勤めとは違う働き方をされている方はおられたりは?

関: 
 普通ですね。親は商売をしていたので、サラリーマンよりはフレキシブルな感じで働いていたかなと思いますけど、親戚には会社員もいたし、そんなに特殊な人は家族にはいなかったです。
 ただ、その同級生もですけど、まわりの人には恵まれていたのはありますね。当時のマンガの本には、マンガ家さんの住所と電話番号が書いてあったんです。
 それを見て訪ねてみて、相手をしてもらうとか、街角の絵を描いている人のところで描き方を教えてもらったりとかしていたんです。

関:
 あとは近所に木工場があって、出入りして電ノコの使い方だとか、木工の作業を教えてもらったりとか。「こんなことしたいな!」と望んだら、やらせてもらえたり、見せてもらえる出来事が、結構身近にあったんです。
 その繰り返しで、「やりたいことは積極的にやれば、上手いこといくんだ」みたいに、自然と考えるようになったんでしょうね。

――子どもの頃の小さな成功体験や、試行錯誤の積み重ねが、自発性に繋がった。

関: 
 そういうことを許容してくれるくらい、当時は社会が大らかだったんですよね。
 今は急に知らないところに訪ねていくって言ったって、中々許されないと思うんですけれど、当時は受け入れてくれる環境がまだあった。人にも、時代にも恵まれたかもしれません。

■分岐点2:美術高校か普通高校か……高校受験の決断

――その後の人生で、2つ目の分岐点にあたる出来事はなんでしょう?

関: 
 若干お話が前後しちゃいますけど、「高校受験」ですね。中学の卒業が近づいてきて、受験のことを考え始めたとき、「お芝居がしたい」という思いと、「絵を描きたいなあ」という思いがあったんです。
 それで後者の方の進路を真面目に考えて、絵を習える美術系の学校に進学しようと思って勉強していたんですよね。でも、試験の当日に風邪を引いてしまって、体調が悪いまま試験を受けたんですよ。

――一発勝負な受験のつらいところですね……。

関:
 そのあとで滑り止めに普通の高校を受けたんですけど、合格発表の順番は逆だったんですよね。体調の悪い中で試験を受けたからただでさえ自信がないところに、ここで決断しないと、進学先がなくなるかもしれない恐怖感まで生まれてしまった。
 だから美術の学校にすごく行きたかったんですけど、普通高校の入学手続きをしてしまったんです。で、そのあと、美術高校からも合格通知が来たんですよね。

――うわぁ……。

関:
 多分そこで美術の方に行ってたら、美術系の職業に就こうとしていたんじゃないかと思います。そうしたら、声優にはなっていなかったかもしれないなあ……と。
 もちろん、進学を決めたときはそこまで意識していませんでした。あとから振り返ると、大きい出来事だったんですよね。
 普通科の高校に進んで、やろうと思っていたことができなくて、暇ができちゃったから声優の養成所……勝田声優学院に入ったみたいなところもありますから。

――そこには、さきほどの「普通じゃない職業に就きたい」だけではなく、思うことがやれなくなった悔しさのような気持ちもあったのでしょうか?

関: 
 いえ、気持ちの切り替えは早いんですよ。美術高校はダメだったから、絵は趣味で描いて、その分、退屈なところは部活の代わりにお芝居でもやってみようかな、くらいの感じでした。
 「芝居にも興味あったなぁ」と思い出して、挑戦してみたってところです。

■恩師・水鳥鐵夫氏の指導「裏方はお前の使い走りじゃないんだ!」

――そうして飛び込まれた勝田声優学院での日々はいかがでしたか?

関: 
 なんか、妙に自信があったんですよね。すぐ簡単に声優になれると、現実を知らないがゆえの浅い思い込みがあった。
 そうしたら、意外と……といったら語弊があるかなと思いますが、声優のお芝居というよりは、普通のお芝居の勉強をすることになって。いわゆる演劇の練習をしていくんですけれど、高校生だから、ほら、思春期じゃないですか。
 女の子とイチャイチャするみたいなお芝居とか、ちょっとできなかったんですよ。恥ずかしすぎて(笑)。

――演技と割り切れないところがあったんですね

関:
 そんな調子だから、先生にも見限られて、落ち込んじゃって、しばらく行かなかったりしてましたね。登校拒否ってほどでもないんですけど、最寄りの駅まで行って、「めんどくさいから帰っちゃえ!」みたいな感じで、ゲーセンでただ遊んで帰ってました。
 最初のうちは、思っていたよりも少しハードルの高いことを求められて、困惑した……みたいな感じでしたね。

――そこでドロップアウトせず、続けられた理由はあったんですか?

関:
 友達に恵まれたのが大きかったです。同級生に恵まれて、厳しい言葉も言ってくれたし、逆に励まされたりもしました。今思えば、あのとき出会った友達は、財産ですね。
 あと、厳しいことを言われた方とは別の先生に出会って、その先生も厳しいんですけど、厳しさの中に優しさ、思いやりみたいなのが感じられたんですね。
 ダメな僕を見捨てないで、手を引いていってくれるところのある先生だった。そんな友人たちと先生との出会いで気を持ち直して、「もう少し続けてみようかな」と思えたんです。

――その先生とは、水鳥鐵夫先生ですか? このシリーズ連載の三石琴乃さんの取材でも、印象的だった先生としてお名前が上がったのですが。

関:
 あ、そうです。鐵夫です。

――「鐵夫」!? 普段からそうお呼びになられてたんですか?

関:
 裏では(笑)。これ、文章に起こしたときに、ニュアンスが上手く伝わるといいなあ。本人を前にしたときはもちろん、オフィシャルな場ではちゃんと「水鳥さん」「水鳥先生」と呼んでましたよ。
 同級生との間での愛称というか、あるじゃないですか? わざと下の名前で呼んで、偉そうにしてみる仲間内のゲームというか。ちょっと悪ぶって「また鐵夫がさぁ〜」みたいにあえて言ってみることで、愛情表現をしているというか。甘えているんですよね。
 苗字を呼び捨てにすると感じ悪いですけど、下の名前だと、ちょっとファニーな感じしません?

――たしかに、わかります。親愛の情を込めた、軽くすねた子供みたいな、可愛い感じでの呼び捨てですよね。いいエピソードです。

関:
 そんな大した話じゃないですよ(笑)。ちなみにお墓もここ(※取材を行ったアトミックモンキーの事務所)のすぐ傍にあるんですよ。東京タワーの麓のお寺にあるんで。

――定期的に足を運ばれているとか。

関:
 親戚のお墓参りより行ってると思います。養成所で何人かの先生に教えてもらいましたけど、水鳥さんとの思い出が印象的すぎて。
 教わったのが入って最初の頃だったのも手伝って、今も思い出すようなことばかりですね。

――それはお芝居に関することですか?

関:
 もっと基本的な、人としてどうあるべきか、みたいなことばかりです。お芝居のアドバイスは、逆にほぼ覚えていないですね。
 「部屋に入ったら帽子を取りなさい」とか、そういうお父さんやバイト先の人が教えてくれそうなことを、最初に教えてくれた人です。叱られたことばっかり覚えています。本当に、しょっちゅう怒られていて……。

――たとえば、どんなことで叱られていたんですか?

関:
 「舞台の共演者、それから裏方のスタッフと表方の出演者のあいだに優劣はないんだ」なんて言葉は、よく思い出します。
 役者って、表に出てる出演者が、舞台の花形だと思いがちなんですよ。僕はそう思っていたつもりはなかったんですけど、ある舞台に出たとき、ちょっと手が離せなかったから、裏方の友達に買い物を頼んだことがあったんです。
 そうしたら、水鳥先生に「裏方はお前の使い走りじゃないんだ!」と、滅茶苦茶怒られて。

――厳しいですけど、大事な考え方ですね。

関:
 あとは「言い訳するな」ですね。どれも具体的な、自分のやってしまったことと紐付いて怒られたことが記憶に残っているので、ちょいちょい思い出すんです。

――すごくお慕いになられている様子がお話ぶりから伝わってくるのですが、そんな関さんが水鳥先生が演出家として参加されていて、勝田声優学院の卒業生のみなさんが多数参加されている劇団のあかぺら倶楽部に合流されなかったのはなぜだったのでしょう?

関:
 実は合流しようと思っていたんですよ。公演の受付でもぎりをしたり、車で小道具を借りに行くのをお手伝いしたりして、そのまま流れで劇団に入れてもらおうとしていたんです。
 でも、当然なんですけど、すでに劇団員がある程度の人数は所属されていて、もともと高木渉さんや三石さんといった先輩たちが演劇をやるために作られた劇団なので、自分が入ってもなかなかメインをやる順番が回ってこないじゃん! と、ふと気づいてしまったんです。
 先輩たちがやっている役は当然やれないし、他にも年齢の近い子たちも何人もいたから、競争で勝たないと舞台に出られない。これじゃ、いつになるかわからないなと思って、辞めよう! と。
 で、そのまま友達と、劇団ヘロヘロQカムパニーを作ったんです。「自分たちがやりたいときに、やりたいことをやれる環境の方がいいな」と思ったんですよね、そのときは。

――高木さんや三石さんのように、水鳥先生にもう少し教わりたい、みたいな気持ちは……。

関:
 ありましたよ! でも、それこそ、先輩たちもそう思って、水鳥さんをがっつり抱え込んだわけじゃないですか(笑)。
 いまさらそこに、自分が後から入れないな……みたいな気分でもありましたね。だから、劇団を立ち上げたのは、「しょうがない」みたいな気持ちでもありました。

――難しいものですね……。

関: 
 でも結局、あかぺら倶楽部からは離れたものの、亡くなるまでことあるごとに水鳥先生にいろいろと見てもらったり、話を聞いてもらったりしていたんですよ。
 自分で立ち上げた劇団のお芝居も、最初の内は恥ずかしくて呼べないけど、いつか胸を張って先生を呼んでみせよう! みたいなことを考えてがんばっていたところもありましたし。
 そういう目標にするというか、どこかに認めて欲しい気持ちのある関係でずっといられましたね。

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