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平野綾 「声優はアニメだけ出てれば」と言われないために。『ハルヒ』によってスターダムを駆け上がった後の役者人生における“逆境からのリスタート”

 「平野綾」という名前を聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろうか?

 『涼宮ハルヒの憂鬱』『らき☆すた』といった2000年代後半に人気を博したアニメ作品が浮かぶ人も多いだろう。
 ある人にとっては『 レ・ミゼラブル』や『レディ・ベス』、『モーツァルト!』といったミュージカルに出演する舞台役者としてのイメージが強いかもしれない。

 社会現象にもなったアニメ作品を象徴する大人気声優としてメディアに引っ張りだこになった後、演劇を学ぶために留学し、ほとんどの仕事を一旦リセット。現在は実力派の舞台役者として、華々しいキャリアを築いている。
 唯一無二な舞台俳優人生を歩む彼女は、節目節目で何を感じていたのだろうか。

 ニコニコニュースオリジナルで連載中の、人気声優たちが辿ってきたターニング・ポイントを掘り下げる連載企画、人生における「3つの分岐点」。
 大塚明夫さん三森すずこさん中田譲治さん小倉唯さん堀江由衣さんファイルーズあいさん石原夏織さん三石琴乃さんに続き、今回は平野綾さんにインタビューを実施した。

 平野綾さん口から語られたのは、想像を絶する「逆境」の数々と、それを乗り越えてきた「努力」だった。

 かつてはアイドルとして活動していた時期もありながら人気アニメに抜擢。声優として人気を博していた頃に舞台の世界に飛び込むなど、活躍の場を広げるたびに「門外漢」として後ろ指をさされてきた。
 舞台役者を始めたころは、方々からバッシングを受け傷ついたこともあったという。そして彼女は、その度に人一倍レッスンに通い実力をつけ、周囲を納得させてきた。

 お話を聞いていて「あの華々しい活躍をしていた平野綾が、陰でこんなに苦しみ、努力をしてきたのか……」と、スタッフ一同が圧倒されてしまう凄まじいインタビューになった。人生に秘めた想いを、ぜひ覗いてみてほしい。

文/前田久(前Q)
編集/金沢俊吾
撮影/かちゃ

分岐点1:声優の仕事に繋がった、テレビドラマへの出演

──「ニコニコ動画」の黎明期は『涼宮ハルヒの憂鬱』や『らき☆すた』の盛り上がりに大いに支えられていました。その中心にいた平野綾さんに、時を経て、ニコニコのメディアにご登場いただけるのは感無量です。 

平野綾:
 いえいえ、そんな。今日はよろしくお願い致します。

──あらためて、本日は「人生の3つの分岐点」というテーマでお話しいただければと思います。さっそくですが、平野さんの人生で最初のターニングポイントだといえる出来事はなんでしょうか?

平野:
 ひとつめのターニングポイントは、「声優の仕事に繋がった、テレビドラマへの出演」です。
 小さなころから舞台の仕事に興味があったのですが、両親がともにマスコミ関係だったので、業界の厳しさを知っていました。だからこそ、「本当に覚悟が出来たときじゃないと、芸能活動はやってはいけない」と言われていたんです。
 きちんと家族会議をして、ようやく児童劇団に入ったのが、10歳のときでした。 

──10歳で「覚悟」を求められるのは厳しいですね。 

平野:
 とはいっても、人によっては中学受験を考えるような年齢ですから。両親からすると、自分のやりたいことを絞って、集中できるものを選ぶ時期だと考えていたのだと思います。「よく考えて選んで、やると決めたら一生の仕事にしなさい」と言われて、芸能界入りを決心しました。
 でも、10歳って、子役にしては遅いスタートだったんです。 

──スタートが遅かったことで、苦労されたこともありましたか? 

平野:
 舞台がやりたくて劇団に入ったのに、舞台のオーディションには全然受かりませんでした。そんな状況の中、とあるドラマへの出演が、決まったんです。
 ドラマの主題歌を歌うオーディションに受かり、その流れで、急遽ドラマの出演も決まったのですが、台本数ページにわたる長台詞やアニメパートがある役だったんです。監督から語り口調が面白いと言われ、マネージャーからも声が面白いからアニメのオーディションを受けてみないかと言われたのがきっかけで声優の世界に足を踏み入れることになります。

 このドラマに出たことが、今現在のすべてのお仕事の流れに繋がったんです。

──まさにターニングポイントですね。そのドラマとは『多重人格探偵サイコ 雨宮一彦の帰還』でしょうか?

平野:
 はい、そうです。この作品に出会っていなかったら、歌をうたっている自分も、声優としての自分もいなかったと思います。
 ドラマ原作者の大塚英志さんが、ドラマ版のノベライズのあとがきで“将来が楽しみだ”というニュアンスのことを書いてくださって。『多重人格探偵サイコ』はラジオ番組もやっていて、ラジオでしゃべるお仕事を初めて経験したのもこの作品がきっかけでした。
 あとはアニメパートで初めてアニメの絵に自分の声が当てられているのを目の当たりにして、声優の仕事の第一歩になったり。
 このコンテンツだけで、すごく色々な経験をさせていただきました。 

分岐点2: 『涼宮ハルヒの憂鬱』に出演

──アニメでの声優デビュー作は『おとぎストーリー 天使のしっぽ』。『多重人格探偵サイコ』もコアなファンのいるマニアックな作品でしたが、また違う方向性の、いわゆる美少女ものマニアックな作品でした。平野さんは、そもそもアニメには親しんでおられたのでしょうか?

平野:
 テレビ自体はあまり観ていませんでした。子どもの頃は「ご飯を食べているときにテレビを見ない」というルールがあったり。 
 だからアニメも、当時の子供たちにとって王道なものだけ観ていました。『ドラゴンボール』『美少女戦士セーラームーン』『SLAM DUNK』といった作品ですね。ライトノベルに触れたのは中学生で、自分が出演しているアニメ関連からでした。「こういう世界があるんだ!」とびっくりしました。 

──となると、いきなり『天使のしっぽ』でマニアックな作品に触れた感じですか?

平野:
 あ、いえ、その何年か前に『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』の映画が公開されて、その様子が社会現象としてニュースで取り上げられているのを観て、「アニメってすごいな」と思ったんです。
 そこからフィルムブックを友達と貸し借りして読んだりしていましたし、『多重人格探偵サイコ』の撮影でコミックマーケットに初めて行ったんです。当時小6で、「何だこの世界は!?」とびっくりしたのを覚えています(笑)。

──声優としてのキャリアの転機は、どこで訪れたのでしょう?

平野:
  『涼宮ハルヒの憂鬱』のお話をいただいたときですね。ここが人生のふたつめの分岐点だと思います。 

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──やはり『ハルヒ』なのですね。 

平野:
 お話をいただいたのは高校生のころで、オンエアが始まるころには大学1年生になっていました。それまで声優以外にアイドルとしてのお仕事もしていたのですが、『涼宮ハルヒの憂鬱』をきっかけに声優に本腰を入れることにして、きちんと「声優」を職業として名乗ることにしたんです。

──「声優」を名乗ることには、どのような意図があったのでしょうか?

平野:
 『ハルヒ』が放送された時期から、一気にアニメのレギュラーを増やし露出も増えました。
 どんな業界でもそうだと思うのですが、別の業界で仕事をしていると、畑違いの人間だと思われがちで。声優を名乗る前も片手間でやっているつもりはありませんでしたが、改めて「ちゃんと取り組みたい」という意志表示をしたかったんです。 

──具体的にはどんなアクションを起こされたのですか? 

平野:
  『涼宮ハルヒの憂鬱』の少し前から、声優の仕事が増えてくるにつれて、インタビューをしていただく機会も増えていたんです。そのとき「子役として」「タレントさんとして」といった角度から声優の仕事にどう取り組んでいるを聞かれがちだったのですが、「今後は声優としてがんばらせていただきます」と答え続けました。

──メディアを通じて決意表明されていたんですね。ちなみに、『涼宮ハルヒの憂鬱』では主題歌も担当されていました。

平野:
 『多重人格探偵サイコ』で初めて主題歌を担当させていただき、『おとぎストーリー 天使のしっぽ』で初めてキャラクターソングを歌い、まさかソロデビューしてアニメの主題歌を歌わせていただけるようになるなんて思ってもみませんでした。

 歌手活動をすることが決まったのも、歌は好きだけれども上手く歌えないと思っていたので、お話をいただいたときは信じられませんでしたね。「声優としても、歌手活動でCDを出しても、そこまで需要があるのかな?」と、よく分かっていなくて。
 でもいただいたお仕事はきっちりやりたかったので、とにかく一生懸命に取り組んだことを覚えています。

──なるほど、新しいお仕事に戸惑いながらも、ひとつひとつ真摯に取り組まれたのですね。

 平野: 
  そうですね。その頃まではいろいろと考えながらやっていました。でも『涼宮ハルヒの憂鬱』のオンエアが始まってからは、人生が変わるくらい怒涛の展開が待ち受けていました。それからは、だんだんと自分でも考えが追いつかなくなっていったんです。

『ハルヒ』の現場で「新しいことをやりたい」と説明された

──『涼宮ハルヒの憂鬱』の原作は、スニーカー大賞で久々の〈大賞〉に輝いたのちにシリーズ化されたヒット作ではあったものの、アニメ化前はあくまでライトノベルのコアな読者のあいだでの支持にとどまっていたように思います。制作会社の京都アニメーションも、現在のように一般層にも届くほどの圧倒的なブランド力は持っていない、知る人ぞ知る存在でした。ヒットしたあとの状況しか知らない若い方々からすると、最初から大ヒット確定の超話題作だったように見えてしまいかねないと思っているのですが、放送開始前の空気は平野さんの目から見て、いかがでしたか?

平野:
 初回のアフレコの前に設けられた顔合わせの場で「監督やスタッフの好きなこと、やりたいことを詰め込んだ、新しいことをやりたいんだ」と説明されて。そもそもアニメで顔合わせをするなんて、珍しかったんですよ。先の展開なども説明してくださって、試験的に物凄いことに挑戦するんだなということがわかりました。
 なので、最初のほうは「どう転ぶか分かりません」とずっと言われていました。 

──「どう転ぶかわからない」とは? 

平野:
 「すごいバッシングをされる可能性もあるし、逆にすごく流行る可能性もある」と。
 当時19歳、ハルヒに近い年齢の私は「今までと全く違う環境で大役を任されて、それだけでも緊張するのに、これから一体何をさせられるんだろう?」と思っていました(笑)。

──何をするのか想像もつかないわけですもんね。実際、『ハルヒ』には挑戦的な演出が数多くありました。

平野:
 「真剣に楽しんで悪ノリしてください、それがハルヒのやりそうなことなので」というニュアンスのことを言われて、初めはどうしたらいいかわからず、とにかく全力でやるしかなくて。
 というか、まだ俯瞰で見ているような気持ちだったんです。まさか自分が、その中心にいるとは思っていなかったんですよね。その頃はアニメの現場に行っても10代は珍しかったですし、どこか「タレントさん」や「子役」扱いなところがあったのが、一変しました。 

声優とバラエティ番組

──『ハルヒ』によって、声優業界に受け入れられたという実感があったわけですね。ちなみにこの頃、「ハルヒ役の声優」として、バラエティ番組への出演も多かった印象があります。

平野:
 バラエティ番組に呼ばれると、またそこでは「居づらさ」のようなものがあって。

──バラエティ番組の居づらさ、ですか。

平野:
 当時はバラエティ番組に声優さんがほとんど出ていなくて、でも私は声優のお仕事の前から、バラエティの仕事もやってきていたので、事務所からしたら出るのが普通のことだったんです。
 「声優」の肩書が付いたところで、そのスタンスは変わらないつもりだったのですが、今とは違って、当時の声優ファンの方からは「何でテレビに出るの?」と思われてしまう。そこの葛藤はすごくありました。 

──見ようによっては、本業をおろそかにしているように見えてしまう。つらいですね。

平野:
 でも「バラエティ番組の経験もある「声優」の私だからこそ出来ることがあるはずだ」と思ってがんばっていました。ただ、バラエティ番組でのお仕事に関しては、しゃべるのが得意なわけではなかったので、本当に「がんばらなきゃ!」と思いながらやっていました。

 私がバラエティ番組に出る以前から声優の先輩たちががんばって作ってこられたレールの上に、私もいたのだと思っています。
 あと、インターネットやSNSがあのころよりもさらに普及して、アニメや声優の捉えられ方が変わっていった部分は大きいです。時代に沿って、出来ることが増えていった一面もあったのかなと。

──『鬼滅の刃』の大ヒット以降、地上波のバラエティで声優さんたちの姿をお見かけする機会も増えていますが、扱いが昔と違う印象です。リスペクトがあるというか。それはやはり、いろいろな意味で平野さんたちがあの頃、地ならしをしてくださっていたからなのかなと思いました。 

平野:
 声優がバラエティ番組に出ることが当たり前になって、良かったなと思います。リスペクトで言うと、本当にアニメ作品が好きなタレントさんや芸人さんが増えましたよね。
 「実はアニメ好きなんです」と隠れファンが多い印象でしたが、堂々と「この作品が好き」と言ってくださる方が増えて、環境が変わって居やすくなったなと思っています。 

何をやるにしても「ハルヒっぽくやってください」

──話を『ハルヒ』に戻しまして。改めて、社会現象級の話題作となると、ただ「アニメがヒットした」に終わらない、いろいろなことがあるものですね……。

平野:
 本当にいろいろな方に影響を与えた作品ですし、私にもそれが跳ね返ってきて、すごく影響を受けました。 

──「声優」という肩書と合わせて「涼宮ハルヒ」という看板も背負ったようなイメージでしょうか?

平野:
 いま思えば、そうだったんでしょうね。当時は「平野綾」と「ハルヒ」がセットで見られていました。私としてもそう見られることを否定するわけではないのですが、ただ、どこにいって、何をやるにしても「ハルヒっぽくやってください」と言われることが多かったのは、悩ましいものでした。
 自分が新しい現場で「こういうお芝居のプランにしよう」と思い切ってやってみても「もうちょっとハルヒっぽくやってください」と言われてしまうと……。当時は年齢もまだ若かったですし、「時が過ぎれば、もう少しやりたいことが出来るのかな」と考えて、我慢していました。 

──『涼宮ハルヒの憂鬱』から跳ね返ってきた影響というと、ほかにはどういったことがあられたのでしょうか?

平野:
 良いことも、悪いことも、すべてがすごい勢いで押し寄せてきたんですよね。日々の仕事に追われてしまい、それを自分の中で消化する時間がまったくなかった。この時期に、とてもメンタルが鍛えられました(笑)。強くないとやっていられないな、と。
 一番忙しい時期は、週に10本以上アフレコがあって、ラジオもあって、取材も、歌のレコーディングもあって、土日はイベントやライブがあって……。

──それは忙しすぎますね……。週に10本のアフレコとなると、平日に1日2本収録のペースですか?

平野:
 ですね。おまけに抜き録り【※】だらけです。場合によっては、1日に10本近く、まとめて収録するときもありました。抜き録りなので、そういう対応ができてしまう。でも、本当にきつかったです。

※抜き録り
日本のアニメのアフレコでは通常、出演する役者陣がスタジオに一同に介して音声を収録するが(現在はコロナ禍のため若干事情が異なる)、何らかの事情でそれができない場合に、役者ごとに個別に収録すること。

若かったからこなせた怒涛のスケジュール

──聞いているだけで頭が混乱しそうです。

平野:
 私自身も、何をやっているのかよく分からないときがありました。肉体的にも、終電が間に合えば電車で帰れるけれども、帰れない時はタクシーに乗るお金もないので歩いて帰ったり。

──ええっ!?

平野:
 それで次の日もアフレコの仕事が大量に入っているので、なんとか朝の7時くらいまでにビデオチェックを終わらせて、8時過ぎまで寝て、9時には家を出て現場に向かう……。20歳そこそこで、若かったからこなせたスケジュールだったと思います(笑)。

──とてつもないですね。

平野:
 本当に寝る間もなく、それでいてお金もなかったので、心が豊かにならないまま表現をしないといけない時期でした。でも、その時代があったからこそ、わかったこともあったと思うんです。

──「わかったこと」はなんでしょうか?

平野:
 自分から何かを生み出さないといけない仕事なのに、インプットが少なすぎてはダメだということですね。心に余裕がないと、表現は出来ないと思いました。

──インプットがないと、いいアウトプットができないということですね。 

平野:
 もうひとつは「体が資本」だということです。当時、体をよく壊していました。一か月入院しないといけないところを二週間で退院したり、車椅子で現場に行くこともあった。そのとき「良いものを作るためにも、自分を守るためにも、できる・できないをちゃんと言わないといけない」と思いました。
  こうした物言いは受け取られ方によってはいろいろなことを返されると思いますが、まずは自分を守らないといけない。自分にもそうした時期があったから、いまの若い子たちががんばっているのを見ると、「大丈夫かな?」と心配になったりもします。 

──当時も若い頃は「それはできない」と言ったり、自分を守ることができなかったんですね。

平野:
 はい。あのころは「少し時間をください」とまわりに相談するのすら怖かったんです。仕事をいただけるのは有難いことなので、与えられたものをひたすら一生懸命やるのですが、少しでも疑問が生じてしまったら取り組めない。話を聞いてくれる人はいませんでした。実際に、急に泣きそうになって、止めてしまった現場もありました。
 立ち止まっていざ自分を振り返ると、「自分の表現したいものって何だったっけ?」と思う瞬間がたくさん出来てしまっていたんです。当時の頭がパニックになっている状態を思い出すと、いまでも苦しくなります。
 
 だからいまは「とにかく余裕を持って仕事をしよう。自分にご褒美をあげる時間や、立ち止まって考える時間を作ろう」と、常に心がけています。

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