海外でのヘイトスピーチ規制事情――“表現の自由”を守るために日本のネットメディアがすべきこととは?
ある特定の民族や人種をターゲットに憎悪をあおる「ヘイトスピーチ」。この問題を取り上げた番組『「ヘイトスピーチ」を考えよう』がジャーナリストの角谷浩一さんとタレントの松嶋初音さんの司会で放送されました。
スタジオには大学院教授の鵜飼哲さん、ジャーナリストの江川紹子さん、作家の中沢けいさんが登場し、海外でのヘイトスピーチの現状や、インターネット上のヘイト活動の責任はどこにあるのかということについて言及しました。
※本記事は、2015年8月に配信した「「ヘイトスピーチ」を考えよう」の内容の一部を再構成したものです。
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ヨーロッパ、アメリカ、日本の対応を比較
角谷:
言論の自由とか表現の自由とかは、いろんなところでぶつかる。ある意味ではネットには自由が担保されていたり、自由があるから問題だっていうところが出てくる。これはどう見たらいいですか。
鵜飼:
私は専門がヨーロッパなので、第二次世界大戦のユダヤ人虐殺ということがあって、これは本当に最大のレイシズム(人種主義)犯罪、まさに先ほど言われたヘイトクライムの最も巨大なものですよね。やっぱり二度とこのようなことを起こさせないということがヨーロッパでは戦後のルールになっているわけですね。
それに対してアメリカの場合は、ある意味でアメリカの社会の原理に非常に自信があるので、黒人差別の問題までを含めて、やっぱり表現の自由の方が、ある意味で人種差別を禁止するということよりも上位に置かれているんですね。
鵜飼:
それで、それぞれの社会をどう見るかということは、もうここでは立ち入らないとして、やっぱりどういう社会で、どういう歴史を持った国なのかということによって力点を置くべき場所って変わってくると思うんですね。
私は日本はやっぱりヨーロッパと似ているところがたくさんあると思うんです。関東大震災のときの朝鮮人、中国人も含めた虐殺事件とか、ある種の大量虐殺的な側面を明らかに持っていたわけですから。
こういうことを正面から見据えるならば、もっと早く二度とこういうことを起こさないための法律というのは整備されるべきだったし、まさに今はもう本当に待ったなしでその課題の前に我々はいるんじゃないでしょうか。
角谷:
おっしゃったように、アメリカは自由民権運動と、それから自由がまず担保されなければ何もできないというところから、やっぱりどんなことがあっても自由を守ろうと、それから言論の自由はもう大前提だというところがある。
その文化にこの60、70年、日本はその流れの中で法体系などがつくられてくるし、価値観も近いかもしれない。
中沢:
ネット自体がもともと米軍が持っていたインターネットのネットワーク自体を開放して新しい産業や事業を興そうとしたものですから、インターネット、あるいはそれにかかわるパーソナルコンピューターの技術を支えている思想がアメリカ寄りですね。
角谷:
アメリカの価値観だから。
中沢:
確かにそういう側面はありますね。
角谷:
一方でヨーロッパの本当の価値観と近い部分、または日本のもともと博愛とかそういったものが自由の中に含まれているという価値観があったときには、もう少しまた別の文化になる。
鵜飼:
そうですね。でも自由ということは、やっぱり責任の概念って不可分ですから。何をしてもいい自由っていうのは現実的には自由でも何でもないこと。
中沢:
個人的に言うと、アメリカが考えている自由、表現の自由の重要視っていうのは非常によく分かるんですけど、アメリカって一方では銃を所持する自由も認めている。だから、「つまんないことを言ったら、銃をぶっ放すぞ」っていう人もいっぱいいる。
角谷:
つまり圧倒的な自由は、すべて自己責任の自由なんですよね。
ヘイトスピーチを行う者は被害者意識が強い
角谷:
江川さん、インターネットはどうなっていけばいいですか。
江川:
以前のマスメディアが圧倒的に情報を発信していた時代っていうのは、マスメディアの方で「ここまでやっていい」っていうラインを自制的につくってきたところがあると思うんです。
でもそれを越えちゃうと、例えばさっきから何度も言っているイラクの人質事件のときには「ここまで言ってもいいんだ」っていう話になっちゃったと思うんですね。
インターネットの場合には、大マスコミのような、いわゆるけん引性はないんだけれども、自由に発言できる。そういう中で、人と人とを結びつける機能がすごくありますよね。これはとってもいいことで、これを規制することは私は間違っていると思います。
江川:
いろんな人たちが使うので、今までは「こんなことを言ったら、他の人からなんて言われるか」とか、あるいは「自分は少数者だ」と思っていた人たちが結びつくことによって、どんどん自信を持ってきたところはあると思うんですね。そういうことにネットは役立ってしまった。でもそれをやめるかって言うと、それをやめるのは逆に副作用が強すぎると私は思うんですね。
例えばニコニコ動画なんかは、かつては本当に何でもかんでもやれちゃうみたいな、そういうメディアだった。けれども、これだけ大きくなって影響力を持ってくると、どこまでやっていいのかっていうのを、ある程度メディアとして持たなきゃいけないような時期だと思うんですよね。
こういう問題になると、「ネットの責任」って言われるけど、私はその前にもう一度、マスメディアの責任っていうことを言わなきゃいけないと思うんですよ。それはなぜかって言うと、さっきも言ったように、ものすごく被害者意識を持っているわけですよね。
中沢:
ヘイトスピーチをやっている人たちがね。
江川:
そうなんです。これは装っているんじゃなくて相当そう思っている人たちがいっぱいいると思うんですね。そういうような意識をつくってきた中に、ネットだけじゃなくてマスメディアの責任ってものすごく大きいと思うんです。例えば、韓国とかの状況を見るときに、日の丸を焼いている映像を繰り返し流しますよね。でも韓国の一般の人たちはどうなんですか? っていうのは、よく分かっていない。
もちろんインタビューしている人たちもいるけれども、やっぱりどうしてもテレビ的に画になるものばかりを狙っていくわけです。それで同じものを繰り返し流す。だから、私はニコニコ動画にはそっちの方に行ってほしくないっていう感じもするんですよね。