後世に語り継がれるライバル史「ジョブズ VS ゲイツ」—— MicrosoftとAppleの駆け引きの裏話を両社元副社長が語る
ハードウェアをヒットさせたジョブズ、ソフトウェアで好機を捉えたゲイツ
古川:
(ジョブズが稼いだ金額は)日本円で言うと23歳で1億円。24歳で10億円。25歳で100億円。特徴的だったのは、ジョブズが「金目当てじゃないんだ」と主張していたことでした。そこがすごくフェアでした。
前刀:
スティーブは自分の考えた事を、とにかく実現することしか考えていませんでした。
古川:
一方、マイクロソフトはジョン・シャーリーっていうラジオシャック社の人間を引き抜いて、マイクロソフトの社長にしました。彼は上場する時の立役者になりました。
上場する時の目論見書を見ますと、ビル・ゲイツの給料はものすごく安くて1200万くらい。役員も800万円くらい。ジョン・シャーリーは1800万くらい。それでも他の社長に比べたら本当に安かったのですが、自分より高い給料で採用した人間を社長にすることで、マイクロソフトは上場ができたんです。
前刀:
特殊ですけれど、スティーブがアップルに戻ってきた時は、給料が1ドルでした(笑)。
一方、ビル・ゲイツが目指していたのは、ソフトウェア中心の社会だった。巨大企業のIBMは独自製品でパソコン事業への参入を表明し、搭載するソフトウェアの開発者を探していた。
ゲイツはこの好機を捉え、1980年にIBMと高額契約を結ぶ。
ジャーナリストのモスバーグはこう振り返る。
モスバーグ「この時、ゲイツは実に賢い契約をしました。IBMマシンのコピーが作られると予測し、報酬を一括払いにする代わりにソフトの使用権を他社にも提供できるようIBMに要求したのです。IBMはそんな事態を予測せず、ゲイツの条件を飲みました」
古川:
これは話がごちゃごちゃになっています。IBMに渡した契約は「非独占的契約で他の会社にもライセンスできます」という話と、「1台に対していくらいただく」という話を、混同して語っています。
古川:
正確に言いますと、MS-DOSのバージョンが1.25の時はフラットフィー(一律報酬)でした。本当に信じられないくらい安い金額で、「何台コピーしてもよい」という契約でしたが、バージョン2.11になってから、1台当たりいくらという、上限が増えていくスタイルの契約に変わっていきました。
1984年、MS-DOS搭載のMacintosh発売開始
そして、アップル社は巨大シェアを誇るIBMに挑戦する広告キャンペーンを展開し、その宣伝にはゲイツ自身も登場した。
「アップル社にはかなり協力しました。エクセルを発売したのもMacintoshが初めてだったのです」
当時はライバルではなく、パートナーだったのである。共通点も多く非常に良好な関係だった。
古川:
そう、エクセルが初めて出たのはMacintoshでした。なぜ、キヤノン販売が日本でMacintoshの販売と、エクセルの日本語化にすごく協力的だったかというと、実はキヤノンが、画面の中で窓(ウィンドウ)を重ね合わせて表示する特許を持っていたからです。皆、「その技術はゼロックスが作った」と勘違いをしていて、「ゼロックスからWindowsもMacも盗んだ」と言っているけれど、実は違うのです。
ゼロックスが作り上げた『Xerox Star』や『Alto』のシステムは、窓が重なり合わないで、次の窓は残りの隙間に出てきます。現在の一般的なやり方である「窓の上に重ねて次の窓を表示させる」というのは、キヤノンしかありませんでした。
古川:
もし、キヤノンがその特許料をWindowsとMacの両方に請求したら、出荷も停止できましたし、「売上の何%はキヤノンに払え」と言えました。でも、キヤノンはすごくフェアでしたので、そんな要求をする前に「Macintoshを売らせてもらえませんか」と言い、そこからパートナーシップが始まったという背景もあったのです。