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【元ドイツ・Uボート】旧日本軍潜水艦『呂500』日欧3万kmの軌跡。洋上結婚式に味方からの誤射…90日間の航海秘話

盛大に行われた「赤道祭」、無線担当電信士が「洋上結婚式」

 1943年5月の下旬になると、大西洋上で予定していたドイツ海軍の補給潜水艦と無事に会合を果たします、洋上で燃料と食料を補充したU-511は南下を続け、5月27日頃に赤道に到達。艦内では赤道通過を祝うお祭「赤道祭」が盛大に行われました。

 お祭では、海の神様であるネプチューンに扮した乗員が登場。ネプチューンに洗礼を受けた乗組員たちは、甲板上で丸裸になって大いにはしゃぎました。気がつくと杉田軍医もその輪に加わり、ともに赤道の通過を喜んでいました。

赤道祭。

 赤道通過後の6月1日、日本から北東へ約2000km離れたアッツ島が玉砕したという情報がベルリン放送から届きます。

アッツ島。

 野村中将、杉田軍医が戦局の将来を案じる一方で、その頃艦内では一風変わった行事が行われていました――。洋上結婚式です。

 結婚したのはU-511の無線を担当する電信士。シュネーヴィンド艦長が媒酌人を務め、ベルリンの教会にいる奥さんに電報を送る、という日本海軍では見られない光景でした。

 ヨーロッパを出発してから一ヶ月となる6月10日頃、ようやくアフリカの南端・喜望峰の近海にさしかかりました。イギリスの飛行機に発見されないように、U-511は喜望峰から約800km南方を迂回し、無事インド洋に達しました。

喜望峰。

 インド洋は波が高く、時速10km/h程度しか速度が出ません。横揺れもひどく、寝台に寝ている野村中将がベッドから放り出されることさえありました。

 U-511は隠密行動を主眼としつつも、インド洋でふたつの戦果をあげています。ひとつは6月27日、アフリカ南東部の沖合にあるマダガスカルに達する頃、連合軍の汽船に遭遇しました。U-511はただちに急速潜航し魚雷を発射、約7000トンの汽船を沈没させました。

 もうひとつは7月9日、スリランカ南部の沖合約1500kmの地点で、再び連合軍の汽船を発見。水上から魚雷を二本発射し、同じく約7000トンの汽船を撃沈しました。

 この戦果について戦闘を体験した野村中将は「インドを通じての対ソ援助の軍需物資の輸送が如何に活発に行われていたかを物語るものである」と回想しています。

 インド洋をさらに東へと進み、東京のラジオが聞こえるようになった後の7月15日、U-511は当時日本が占領していたマレー半島のペナン沖合に到着。日本の敷設艦・初鷹に迎えられ、翌7月16日にペナンに到着しました。

初鷹。

 ヨーロッパを出港してから既に二ヶ月以上が経過していました。この時、野村中将は航海中には入れなかったという久々の入浴、日本食のご馳走に生気を取り戻し、東京とベルリンにペナン到着の電報を打ちました。

 そしてペナンで歓迎を受けた後、野村中将は東京の海軍省から派遣された飛行機で7月24日、無事東京に帰着しました。

 ペナンに到着したU-511は最終目的地である広島の呉軍港まで、まだ6000km以上もの距離を残していました。ボルネオ島周辺や南シナ海には連合軍が敷設した機雷による危険海域が続くため、油断はできません。

(C)imakenpress 今井賢一

 手厚くもてなしてくれたシュネーヴィンド艦長に対し野村中将は「東洋には百里を行くものは九十里を半とす、ということわざがある」「無事に呉軍港へ到着するようひたすら武運の長久を祈る」という言葉を伝え、日本へ向けた航海の無事を祈りました。

 そして1943年7月24日、故障がないことを確認したU-511はいよいよ日本へと向けてペナンを出港しました。しかしマラッカ海峡を通過した後の7月29日、思わぬ危機がU-511を襲います。その危機は、友軍である日本軍がもたらしたものでした。

 南シナ海を日本に向けて進んでいたU-511を、台湾からシンガポールに向けて航行していた日本の輸送船団が見つけました。護衛艦を含む輸送船団はU-511のその風変わりな姿に緊張しました。日本の潜水艦とは明らかに形状が違う上、船体の色が日本の黒とは異なり白に近い灰色をしていたからです。

 輸送船団は、敵潜水艦と断定しました。ペナンからU-511に乗り込んでいた奥田海軍大佐は誤解される可能性を感じ、発光信号や手旗信号で、日本に譲渡されたドイツの潜水艦であることを必死に伝えます。しかし、潜水艦からの魚雷攻撃を恐れる輸送船団の一隻が突然、砲撃を開始してしまいました。

 慌てた奥田大佐が手旗信号で砲撃中止を厳命すると、なんとか砲声は収まりました。しかし船団を護衛していた海防艦・択捉が接近してきて、執拗な尋問をはじめます。奥田大佐は詳細な説明を行うことで誤解を解き、思わぬ危機からようやく逃れることができました。

択捉。

 その後、船体の色を塗り替え、危険水域を乗りきったU-511は、1943年8月7日、約3万km・90日の航海を終え広島の呉軍港に無事到着しました。

呂500・日本到着

 呉に入港したU-511は、当時の呉鎮守府司令長官の南雲忠一中将をはじめ、将兵から大歓迎を受けました。シュネーヴィンド艦長は上京し、ドイツからの贈り物を無事日本に送り届けたとして、海軍大臣をはじめ日本海軍首脳の特別の歓待を受けました。

 その後、回航中に「さつき1号」と仮の名前をつけられていたU-511は、日本海軍への引き渡しが無事に完了、乗員の交代も済み、1943年9月16日に「呂号第五百潜水艦」と命名され、日本海軍に正式に編入されました。

(画像は国立国会図書館所蔵より)

 日本海軍に編入された呂500は、呉の海軍工廠に係留され、まずは技術調査を実施することになりました。先に日本に帰国していた野村直邦中将とU-511に乗って来日したシュミット博士ほかドイツの技術者たちが調査に参加し、数ヶ月をかけて野村中将は次のように結論づけました。

1.U-511と同一の潜水艦を、当時の日本の状況で量産建造することは、主として金属材料の不足と工作機械の不備のために不可能であることがわかった。

2.またこの型式の潜水艦は、水中速力が低いので、レーダー兵器が威力を発揮しはじめた戦場の使用には不適である。潜水艦の被害が激増した主要な原因として、水中で速度の遅い点がはっきりと指摘されている現状においては、日独海軍ともに、もっと水中速力を増やせるように艦形を変更することが必要である。

 以上ふたつの理由から、U-511と同一の潜水艦を量産することは不適当ということになりました。しかし調査によって、U-511は日本の潜水艦建造に関する技術として次のような画期的な功績をもたらしたと野村中将は伝えています。

1.潜水艦の量産において、もっとも重要な技術は、電気溶接に関することであるが、幸いその方面の最高の権威者であったシュミット博士の実地指導によって、日本海軍の得たところは甚大であった。

 すなわちU-511が到着するまでの我が国の技術では、潜水艦建造の一部分だけに電気溶接の技術を応用していたに過ぎなかったが、シュミット博士の指導を受けて以来、水圧に耐える船体部分の建造までも、電気溶接を応用するようになった。

2.次に、空中からレーダー兵器で偵察発見する飛行機の対潜攻撃のほかに、水上艦艇は水中聴音機を用いて潜水艦の発見と攻撃を行っていたが、これから逃れるためには潜水艦内の各種機械の運転によって起こる振動をできる限り少なくして、一切の音響が艦の外に伝わらないようにする必要があった。

 いわゆるこの防振防音の装置について、U-511の調査から学んだものは非常に大きかった。

3.各種の技術調査を終わった後、U-511は潜水学校付属の練習潜水艦としてドイツ潜水艦の実用性能の調査と、日本海軍の潜水艦乗員の養成に使われることになったが、この面でも多くの教訓が得られた。

 実戦に投入されることのなかった呂500ですが、その静かな性能から潜水艦部隊の敵役の潜水艦として利用されました。

 そして1945年8月15日、訓練用として舞鶴で終戦を迎えた呂500は、その翌年の1946年4月30日、連合軍によって若狭湾に海没処分され、70年以上が過ぎた今もまだ日本海の海底に眠り続けています。

若狭湾。

■参考文献
・潜艦U-511号の運命―秘録・日独伊協同作戦(Amazon
・新装版 深海の使者(Amazon
・ヒトラーの贈り物 Uボート日本来航記(Amazon


 ニコニコでは6月18日から旧日本海軍「呂500」の探索を行う様子を『ドイツ生まれの潜水艦・旧日本海軍「呂500」を追え!日本海より探索調査を生中継』と題して中継いたします。

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