菅直人元総理は「3.11」のとき、どう決断し、どう行動したのか? 10年経ったいま、福島第一原発事故を振り返る
東日本大震災から10年。今なお福島県・宮城県沖では余震が発生し、さらに東京電力福島第一原発事故の影響でいまだに帰還できない住民は約4万1千人(復興庁調べ・2月)を数えます。
あれから10年の節目である2021年3月、ニコニコでは、『【3.11から10年】その時、総理はどう決断したか 菅直人元総理インタビュー』と題した生放送を実施。
番組には、当時、総理大臣を務めた菅直人元総理、朝日新聞で原発事故の調査報道を行ってきた青木美希さん、原発事故当初から東電会見などを取材してきたフリーライターの木野龍逸さん、元NHKアナウンサーで現在はジャーナリストの堀潤さんが出演しました。
本稿では、菅元総理を中心に、報道に携わってきた3名のジャーナリストと共に、事故発生当時の様子を時系列で振り返った生放送を紹介します。
※本記事はニコニコ生放送での出演者の発言を書き起こしたものであり、公開にあたり最低限の編集をしています。
※記事中の役職名および肩書は2011年当時のものも含まれています。
■原発の事故は100%人災だった
堀潤さん(以下、堀):
東日本大震災、原発事故から11年目が始まりますが、事故の原因は本当に究明されたのでしょうか。
そして、先日も東日本大震災の余震が原発を襲いました。現在の第一原発の本当の状況が世間に伝えられているのかどうかなども含めて、当時を知る皆さんと今を生きる私たちはさまざまなものが去来するこの1年だったと思います。
復興庁の調べでは、福島第一原発の事故の影響でいまだ帰還できない方々というのはおよそ4万1000人を超えています。
ニコニコはこの震災をきっかけに、2011年3月17日から毎日官邸に入って官房長官会見を生中継しています。
10年目という節目の年を迎えて、ニコニコでは当時、総理大臣として東京電力福島第一原発の事故という前代未聞の事態に直面していた菅直人元総理とともに、当時のタイムラインに沿って振り返っていきたいと思います。
第94代内閣総理大臣で、現在は立憲民主党最高顧問の菅直人さんです。よろしくお願いします。
菅直人元総理(以下、菅):
よろしくお願いします。
堀:
菅さんは最近、こちらの『原発事故10年目の真実』という本を出版されました。
当時、どのような判断が必要だったのか、なぜ事故が起きていったのか、何をするべきなのか、新しいエネルギー政策とは何なのか、菅さんご自身がこの10年を振り返りながら未来を展望する内容です。
菅さんご自身はどういう思いでこれを書かれましたか。
菅:
やはり10年目ということで一つの区切りですから、どちらかといえば前向きな、簡単に言えば原発がなくても、化石燃料を使わなくても、十分再生可能エネルギーで電力はまかなえるんだという前向きな話を中心にしつつ、当時のこともきちんと述べました。
堀:
私もこの10年、原発事故で避難を強いられた方々の訴訟の取材を続けてきたんですが、やはりまだ戦ってます。
そして地裁、高裁と判決が出ていく中で、あれは天災とはいえない、人災だったんだといった判決を下す裁判所もあります。
菅さんご自身はあの事故に直面されて、未然に防ぐことができた事故だったのかどうか、10年経って今、改めてどう思われてますか。
菅:
あれは100%人災です。日本は何回も地震もあったし、津波もあったんです。
端的に言えば、緊急用の電源が一番低いところに設置されてました。それだけでも、免震重要棟のある高さ30メートルのところに設置されてあれば、少なくとも全電源喪失には至ってません。
私、なぜあんな低いところに置いてたか少し調べてみたんですが、1号機はGE(世界最大のアメリカ合衆国の総合電機メーカー「ゼネラル・エレクトリック社」)が100%作ったんですね。
アメリカはあんまり海のそばに原発を置かないので津波の心配がないんですね。
しかし、日本はあの地域を含めて津波の心配は長年やってるわけですから、そのことを考慮に入れないで原発を作った、その点だけからいっても完全な人災ですね。
堀:
あれから10年、事故を防ぐ仕組みがきちんとできているか、電力会社は変わったか、そして国の管理は変わったか、市民社会の意識は変わったか、いかがでしょうか。
菅:
いくつか変わった面もあります。
例えば、原子力規制委員会というのは、今は経産省とは全く独自の非常に独立性の高い、NRC(アメリカ合衆国原子力規制委員会)に近いようにかなりの力を持ってます。そういう改善というかよくなった面もあります。
しかし、必ずしも変わっていないところもたくさんあります。
これから東電がやろうとしてる中でも、事故炉の廃炉の問題やあとで問題になる汚染水の問題。
あと20年、30年経ったらもうきれいな更地に戻せるようなことを言ってますけども、私が見る限り、チェルノブイリの例を見ても、あそこは35年経っても、まだ大きなドームをかぶせて、あと100年間放射能が下がるのを待つという状態です。
私は残念ながら福島原発事故も、事故炉の跡を更地にして、他の目的に使うというところまではそう簡単にはいかないと思ってます。
堀:
私自身も東日本大震災、原発事故を機にNHKを退職しました。
当時、取材をする中で、いまだにやはりきちんと情報が表に出ていないこと、明らかになっていないことは山積です。
今日はじっくりとお話を伺っていくにあたって、お二人のジャーナリストをスタジオに招いています。
まずは朝日新聞の青木美希さんです。青木さん、よろしくお願いします。
青木美希さん(以下、青木):
よろしくお願いします。青木と申します。
堀:
青木さんは北海道新聞の在職中に、北海道警裏金問題を手がけられて、チームで新聞協会賞を受賞。
そして、朝日新聞に入社してからは、まさに原発事故の調査報道を担ってこられました。
プロメテウスの罠班、手抜き除染スクープ、こちらも新聞協会賞を受賞と。本も今日お持ちいただきましたよね。
青木:
はい。こちらです。
堀:
さまざまな著作物ございますが、今日、手元に持っていただいたのはどういう本ですか。
青木:
これは『地図から消される街』という名前でございまして、避難者の方の言葉から取っております。
このままだと故郷は地図からぬぐい去られてしまうという声です。
堀:
青木さんご自身は一人のジャーナリストとして、あの原発事故には何がまだ解明されていないと思われますか。
青木:
まだまだだと思います。
今日もお伺いしようと思ってますけど、例えば、2号機の格納容器でどうして圧力が下がったかっていう話って、今回、1号機の水位が下がってる話と、実は同じ箇所から漏れたんじゃないかっていう話が現場で出てるんですね。
つまり、原発の弱点がまだわかってないという中で再稼働が進んでいますよね。というところとか、もうわからないことだらけなのにどうして進んでるんだろうと思います。
堀:
そうですよね。津波対策は議論されていますけれども、そもそもあの3月11日の大きな地震によって、原発そのものがどれぐらい傷んでいたのか、当時の原発作業員が残していたホワイトボードのメモにも音が漏れているとか、そうした記載があります。
ただ、それはまだ検証されてませんよね。
そうしたことも含めて、今日はいろいろぜひお話聞かせてください。よろしくお願いします。
青木:
はい。一つだけ言っていいですか。
私、東電会見によく出席していたんですけれども、そこでニコ動の方に随分助けられまして、会見で質問しても「そういう事実はない」とか、「うちは適正にやってる」とか、東電さんがはぐらかしたんですね。
何度も何度も質問したんですけれども、会見を中継していたニコ生のコメントで「メロンちゃん頑張れ」と何回も書いていただきました。なぜ私がメロンちゃんなのかというのはいまだわからないんですけど(笑)。
堀:
そこも未解明なんですね(笑)。
青木:
そうですね(笑)。大変助けられました、ありがとうございました。
堀:
そして、もう一方ご紹介しましょう。
フリーランスライターの木野龍逸さんです。木野さん、よろしくお願いします。
木野龍逸さん(以下、木野):
よろしくお願いします。
堀:
僕もフリーランスになってすぐ木野さんとお話をするようになって、いろいろ助けていただきました。
木野:
いやいや、とんでもございません。
堀:
木野さんはずっと会見も出続けて、私たちにもわかりやすく翻訳をするかたちで発信を続けてこられましたよね。
木野:
そう思っていただけると大変うれしいです。
堀:
木野さんは原発事故当初から東電会見、そして、原発訴訟問題などを取材されてこられたジャーナリストです。
担当がころころ変わってしまう大手メディアの記者たちからは「歩くデータバンク」と言われ、厚い信頼を寄せられている存在です。
そして、書著『検証 福島原発事故・記者会見』を1から3まで出されています。こちらにはもう本当に膨大な情報が発信されて、それを検証しなきゃいけないのはなかなか大変な作業だと思います。
木野:
すごく大変すぎて、3冊やって疲れてしまいました。
堀:
当時は、どのような点が一番大きな課題だと思って会見に臨んでらっしゃいましたか。
木野:
端的に東京電力や、あと、最初は保安院ですけど、事故の情報がちゃんと出るかどうかという話ですね。
「結局、東電から官邸に情報が伝わらなかった」っていう話は、枝野さんもお話しされてましたし、菅先生もそういうお話されてます。
そのような官邸にも伝わってない話は、当然、一般の僕たち市民にも伝わってないっていう、そこが一番大きかったかなと思います。
堀:
当然、もうこの10年間の間で幹部が変わったりとか情報公開、メディアへの対応を変えるんだというふうに電力会社側は説明もしてきました。
木野:
言ってますね。
堀:
木野さんからご覧になっていかがですか。
木野:
あんまり変わってないと思いますね。
堀:
どういった点が?
木野:
何を出すべきかというのを彼らの中で判断はしてるんですけど、判断基準がことごとく間違ってるような気がします。
要するに、それは彼らが出したい情報を出してるだけであって、必要な情報、われわれが必要な情報と、そのギャップが埋まってないのはこの10年、あんまり変わんないかなと思います。
菅:
その点、いいですか。東電の事故が起きたときの24時間、テレビ会議システムが東電本店と各原発のサイトとはつながってるはずなんですが、確か事故発生からの24時間分のテレビ会議の画像はいまだに出てきてません。
堀:
一部、マスクかけられていたり、抜粋されたりしたものが公開されているだけで、全体というのは公開されていませんよね。
菅:
そうです。それから政府事故調でいろんなヒアリングがありました。
私などもヒアリングを受けて、それを公開していいですかと言われたので、私などは「そのまま公開して結構です」と言って公開されました。
しかし、東電関係者はヒアリングは受けられたはずなんですが、私が知る限りではその内容はマスコミがスクープした吉田調書以外は全く公開されてません。
堀:
なぜ公開されないんでしょうか。
菅:
それは東電に聞いてください。私はこれだけの事故を起こした当事者として、そういうところでヒアリングをしたわけですから、それはきちんと公開すべきだと思ってます。
堀:
菅さんが上梓された今回の本の中には経産省サイドとの折衝、つまり政府の首脳であっても現場の役所とどう情報共有していくのかというのは非常に苦労があったという具体が書かれています。
東電の記録の会議の様子を見ていると、一方で東電の現場の広報がこうしたことを広報したいと上役に諮ると「ちょっと待ってくれ」と。
そして、上役がどこかに諮ったと。
そうすると今度は官邸が「これは出さないでくれ」「プレスはしないでくれ」「プレスを止めてくれ」と言っていると。
その官邸はって話もよくよく聞いてみると、経産省の機関であったりとかもする。あのときには何でこの情報が出せないんだという現場のもどかしさもいろいろあったと思うんです。
実際にはどのような状況だったんでしょうか。
菅:
私もすべてを知ってるわけじゃありません。
当時、東電の元副社長だった武黒フェローが官邸に来られてましたが、その人が言ったことが、官邸もしくは総理である私が言ったように一般の方には誤解されてます。
ですから私が「(海水注入を)止めろ」と言ったんではないのも、例えば、その武黒さんという人が「いや、どうも海水注入には、どうもいろいろぐちゃぐちゃ言ってるから止めろ」と言って、吉田所長に伝えたなんていうのは、こちらは全く知らないし、結果としては、吉田所長はそれを聞かないで海水注入を続けたんです。
しかしそのことで、私は当時の自民党からも「何でそんなことやったんだ」と相当責められたんですが、私はやってないのにやったことにされる。
今言ったように「官邸」という言葉が、「官邸のメンバー」というだけではなくて、「東電から来てた人や他の人」まで含めて「官邸」という言葉で語られたことがかなり誤解を生んでますね。
堀:
今日の番組は3部構成になっています。
第1部は東京電力福島第一原発事故のタイムライン、改めて皆さんにあの日の様子を振り返っていただきます。
第2部は危機管理です。そして第3部は東電福島第一原発とエネルギー政策の未来と題して、これからのことについても伺っていきます。
※本稿は第一部「福島第一原発事故のタイムライン」のみとなっています。続きはニコニコ生放送の番組をご覧ください。(この番組は、アカウント登録不要でどなたでもタイムシフト視聴できます。ただしスマートフォンから視聴する場合、ニコニコ生放送アプリのインストールが必要です)
・【3.11から10年】その時、総理はどう決断したか 菅直人元総理インタビュー
https://live.nicovideo.jp/watch/lv330444669
第1部では事故発生から約1週間のタイムラインの中で、特に重要なポイントをオンサイト(原発の敷地内で起きていること)とオフサイト(原発の敷地外で起きていること、各地域で起きていること)を分けてお伝えしていきましょう。
専門用語などは木野さんに解説役を担っていただこうかと思います。よろしくお願いします。
木野:
よろしくお願いします。
■一番困ったのは東電からの情報がきちんと伝わってこなかったこと
堀:
1枚目のパワーポイントの資料です。2011年3月11日14時46分、「東北地方太平洋沖地震」発生、当時はこうした呼び方をしていました。
オンサイト関連では、地震直後に運転中の第一原発の1号機から3号機が自動停止。
約1時間後に1号機から5号機が全交流電源を喪失。
※事故当時は1~5号機の全交流電源を喪失と報告されたものの、4月24日に1~3号機と訂正されている
オフサイト関連では、19時3分、原子力緊急事態宣言。
21時23分、原発から半径3キロに避難。半径10キロに屋内退避を指示。
私はこの頃はNHK職員でしたのでニュースセンターに詰めていました。ちょうど夜、日づけが変わったぐらいでしょうか。
僕の携帯電話に電話が入りまして「堀さん、覚えてますか。新潟でお世話になった者です」と。ちょうど新潟の柏崎刈羽原発が中越沖地震で黒煙が付属の建屋から出たときに取材をさせてもらった電力関係の方だったんです。
「今、報道されている内容よりも原発の状況は厳しいんです。私たちもここ新潟から長野に避難します」と。「NHKさんではなかなかそうしたことを伝えるのは難しいかもしれませんが、原発の状況が厳しいというのをどうか伝えてください」と言われました。
ただ当時、本当に混乱している中で、どの情報が正しくて、どの情報が正しくないのかという整理も行き届かなかったので、国の発表や安心安全情報につながるような呼びかけしか、せいぜいできなかったなという思いもあります。
刻々と変化する中で情報をどのように共有していくのかというのも、非常にこの10年間、反省と、そしていまだに問われるテーマだなと思っています。
菅さんは、この14時46分、その前後含めてどういう状況でいらっしゃったんですか。
菅:
実は参議院の決算委員会というところに出席してまして質疑を受けてました。
そうしたら、14時46分に揺れが大きくて、天井にぶら下がっている大きなシャンデリアが大きく揺れて、これ落ちたら下にいる人大変だなと思って見上げてました。
5分か6分経ったときに委員長が「今日はこれで休憩にします」と言ってくれたので、すぐに部屋を出て官邸に戻って、それから地下の危機管理センターに駆け込んだ。それがまさに地震が起きたその瞬間の行動です。
堀:
第一原発の事故に至る過程では、当然、複合災害でした。大きな地震と津波がありました。
当初はそちらの対応に追われていたかと思うんですが、実際にはどうでしたか。
菅:
まずは地震、津波の対策本部を立ち上げて、それから少し経って原発の対策本部を作ったんですが、実はほとんどメンバーは同じで、場所も同じ危機管理センターの多少分かれても大体一緒にやってました。
そういう点では、最初の情報はやはり地震であり津波でした。原発事故の問題はそのあとにどんどん入ってきました。
堀:
そのときには、菅さんご自身はどのように、その事態をご自身の中で受け止めてましたか。
菅:
原発についての情報で言うと、最初にきたのは電源がまだ確保されてると。電源が確保されてるということは冷却機能が継続しますから、一応安全なんですね。
一番背筋が寒くなったのは全電源が喪失したという知らせがきたときです。
つまり全電源が喪失するということは、メルトダウンが起き得るということですから。
そして実際、今になってみたらわかってますが、その日の夜中にはメルトダウンどころかメルトスルー、つまり溶けた燃料がこんな20センチぐらいの厚い圧力容器の底を抜いて格納容器の下まで落ちるという、これは世界で初めての事故です。
そこまで至ってたのはその日の夜なんです。ただ当時はまだ東電自身も、あるいはそこからわれわれに入ってくる情報もまだそこまではいってないと。原子炉の水位がだんだん下がってきてるという情報でした。
堀:
私が深夜に受けた電話、その電力関係の方々の中では情報が早く共有されていた様子でした。
実際には第一原発の中で働いている方のご家族などが連絡を受けて、そして自治体によっては、国からの指示が出る前に避難を始めようという判断をした地元の自治体もありました。
そうした現場の情報が官邸になかなかうまく伝わっていないという状況は、当時はわからなかったということですか。
菅:
現場といっても、これは福島第一原発という東電の工場の中で起きてるわけです。だから東電の関係者の方は、それは情報が取れたかもしれないけど、東電の中で起きてることを私たちが外から見てもわからないんです。
だから東電から話を聞かなきゃいけない。そのために早い段階で原発の専門家である元副社長の武黒さんが当然、東電本店なり東電の現場と話をして、そこの状況を伝えてくれると思ったんですが……。
のちほど話が出るかもしれませんが、私が翌日の朝、現場に飛んだのも、「ベントをやらなきゃいけない」「ベントを始めます」と言ってきているのに、4時間待っても始まらないんです。
「なぜ始まらないんですか」と武黒さんに聞いたら「わからない」と言われたんです。
今考えてみたら、すべてテレビ会議は東電本店とつながってるんですから、武黒さんであれば吉田所長と面識があるわけですから、「なぜ始まらないんだ」と聞けばいいのに、こちらに来るのは「わからない」です。わからないでは本当に困るわけです。
これはやはり一回は、現場の責任者と話をする必要があると判断して、私は12日の朝、ヘリコプターで現地に飛んで吉田所長に会いました。
会って初めて、ベントは普通だったらスイッチ一つで開くんだけど、全電源が喪失していて弁が開かない。その上、非常に放射線が高くなっており、作業は人が入れ代わり立ち代わりしてやらなきゃいけなくてそこで大変苦労してると。しかし「最後は決死隊を作ってでもやります」と。
私はその一言を聞いて、「わかりました、頑張ってください」と言って、次に津波の視察に回りに行きました。
ただ、そういうふうに最初に情報がわかるのは東電自体なんです。そこから情報が流れないで他からわかる情報というのはほとんどない。とにかく一番困ったのは東電本体からの情報がきちんと伝わってこなかったことです。
堀:
原子力安全・保安院はじめ、所管省庁、役所はどうしてたんでしょうか。
菅:
原子力安全・保安院は本来ならアメリカで言うNRCのようなものであるべきなんですが、残念ながら日本は経産省の中の資源エネルギー庁の下部組織なんですね。
そこから原子力安全・保安院の院長に来てもらって話を聞いたんですが、どうもよく理解できない。
理解できないっていうのは私の理解力がないか、説明のほうが悪いかなので、「あなたは原子力の専門家ですか」と院長に聞いたら、「いえ、私は東大の経済学部を出てます」と。
つまりですよ、原子力の行政で言う一番の現場を、安全性を監督し、コントロールする立場にある行政のトップに、原子力の専門家でない人が就いてるっていうのは本当にびっくりしました。
また事故発生時点には原子力安全保安院のメンバーが何人か福島第一原発のサイトにいたのに、事故発生直後に現場を離れていたことが、その後判明しました。
堀:
菅さんがあそこで強く言わなかったら、東電側は当初、第一原発が深刻化する中で撤退というのも主張していました。
それが吉田さんが「決死隊を作ってでもやります」というその現場の判断もなかったら、10年後の未来があるかどうかというのは非常に分かれ道の一つではありました。
菅:
撤退の問題については、15日に清水社長が海江田経産大臣に撤退したいと言ってきて、それを聞いた海江田大臣が私のところに来て、それで清水社長を呼んで私から「撤退はありませんよ」と申し上げたんです。
なぜそう言ったかというと、私の頭の中には早い段階から小松左京さんの『日本沈没』というのが頭に浮かんでました。
その後、原子力委員会の委員長の近藤駿介さんから250キロ圏の避難ということを最悪のシナリオとして提示してもらいました。
いずれにしても原発というのは特殊な装置ですから、これが普通の火事ならいくら大きなコンビナートの火事でも、全部逃げて1週間か10日か20日か待てば燃えるものがなくなるから消えるんですね。
しかし、原発というのはそうはならないことを私はよく知ってましたから、ここで東電の関係者が全部避難されたら、これはもう広がる一方だと思ったので、ここは大丈夫だから残ってくれと言ったんじゃないんです。
堀:
青木さん、3月11日から12日にかけて、まず最初の判断が問われるタイミングでした。このことについて、菅さんにぜひ質問があればお願いします。
青木:
官邸の対応で、「東電から情報が入ってこなかった」というところについてなんですけれども、もともと官邸もこの原発の安全神話により体制が整っていなかったということの証左だと思うんですが、振り返るといかがですか。
菅:
官邸自体がそういう準備があったかと言われれば、おっしゃるとおりだと思います。
ただ行政というのは幅が広いですから、一応何か起きたときにはその担当者がいるわけですよ。
ですから先ほど申し上げたように普通、原発の事故に関して言えば、経産省の原子力安全・保安院が担当してますから、そこから官邸に「今、こういう状況だ」とかという情報が上がってくるのが、本来の行政の姿なわけです。
もちろん官邸があらかじめ原発事故を想定した体制を組んでたかと言われれば、それはそこまでは組んでませんでした。
しかし一応、役所としてはそういう位置づけになってたもんですから、その情報を待ってたんですけども、的確な情報がなかなか上がってこなかったというのが事実関係です。
堀:
木野さん、いかがですか。
木野:
情報の流れの中で、実際にその情報が全然入ってきてないことに気がついたのは、割に早いタイミングなのでしょうか。
菅:
やはり最初のベントのやり取りです。あとでわかったのは、当時、会長は中国で、社長は関西で、会長も社長も東京にいなかった。
会長、社長は原子力の専門家ではありません。しかし少なくともトップ2が東京の本店にはいなかった。多分24時間はいなかったんでしょう。これもあとでわかったことです。
そういう中で、私たちが一番頼りにしたのは、こちらからお願いしてやってきた武黒さんという元副社長。これは原子力の専門家ですから、この人が東電の情報の窓口になるということで、ほぼ官邸に常駐に近いかたちだったんです。
しかしその人から、先ほど言ったように「午前1時頃からベントをやる」と「3、4時間の間にはやるから」と言ってるのが、何時間経ってもやらないという、そういう意味でそれも含めて言えば、やっぱり東電からの情報がこなかったということです。
堀:
21時23分に第一原発から半径3キロ避難、そして10キロに屋内待避の指示と、これ以降いわゆる同心円での避難区域というのが次々に設定されていくわけです。
先ほどの事前の備えという話でいくと、私たちは結果を知っているので、風に揺られて放射性物質というのは西へ東へ南へ北へと行ってしまうと、この同心円っていうことの判断というのはどういうことを根拠にしていったのでしょうか。
菅:
まずもう一つ、原発の安全を監督する機関として原子力安全委員会というものがありまして、その委員長の斑目さんという原子力の専門家の方にも官邸に来てもらってました。
避難の問題は、本来の予定では、現地対策本部が自治体関係者を集めて判断することになってたんですが、地震と津波が同時ですから、自治体関係者が集まれないんですね。それで結果的に官邸というか、原災本部で避難範囲の判断をやらざるをえなくなったのです。
ですから私は原子力安全委員会の斑目委員長に意見を聞きました。初めのうちは3キロとか5キロ。つまりはそういうことでいいだろうと。
実は日本で起きた原子力の事故で言うと、東海の被爆した事故もありますが、せいぜい数百メートルといった距離なんですね。
ですからそういう意味で、のちほど多分出てくるんでしょうが、どちらのほうに風が流れるかというそういうシミュレーションモデルもあったということをあとで知りました。
そういうものに基づいての判断というのは、その段階ではもちろん私自身も知りませんでしたし、その原子力安全委員会の委員長からも、そういうことの提示がなかったので、同心円状で3キロ、5キロといったことを、まずは決めていったということです。