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菅直人元総理は「3.11」のとき、どう決断し、どう行動したのか? 10年経ったいま、福島第一原発事故を振り返る

■準備不足はあったけど、現場はできることをきちんとやっていた?

堀:
 放射性物質の拡散に関して鍵になるのはやはりまずベントです。タイムライン1日進めます。

 3月12日の午前1時半頃です。

 オンサイト関連では、東電が1号機の圧力が上昇しているため、ベントをさせてほしいと官邸へ要望。

 ベントというのは、中のものを外に出していく作業になりますよね。菅さんと海江田経産大臣がベントを了承。

 そして3時6分、海江田経産大臣と寺坂保安委員長がベントについて共同会見。東電の小森常務から直ちに実施可能などの発言。
 余震、暗闇、高線量などで手動でのベントの準備作業に時間を要す。

 そしてオフサイト関連では、5時44分。ベント実施に備えて半径10キロの屋内退避を避難指示に変更。

 そして9時35分、枝野官房長官が記者会見で避難指示を発表。「避難は万全を期すため」などと説明をしていたということですね。

 実際、東電の電話会議の様子を見ていると、東電のほうではもう早い段階からかなりの高線量の放射性物質がベントによって広範囲にわたって放出されるというのは、試算上はしていたようでした。

 そういうことも含めて、このときにはどのような情報が入って、どのような判断をしたのか。改めてベントに向けてはどうだったのか教えてもらえますか。

菅:
 まさに今、堀さんが言われたようなことが東電から事前に説明があれば、それはそれとして判断材料になるわけですけども、東電からは先ほど言ったように「ベントをやらしてもらいたい」と、実は原発のオペレーションそのものの責任は電力会社なんです。

 しかし住民の避難の範囲を決めるのは原災本部なんです。ですからベントをやれば必ず放射性物質が出ますので、どうしても避難の範囲を広げなきゃいけないから、こちらに了解を求めてきたというところまではよくわかるわけです。
 しかしそれ以上の状況だということは何一つ伝わりませんでした。

 ちょっと先になるかもしれませんが、それで先ほど言ったように私が現場に行ったわけですが、例えばの話、そのあと帰ってきたときに、14時過ぎでしょうか、官邸で秘書官から「総理、テレビをつけてください」って言うからテレビをつけたら、1号機がボーンと爆発してるわけですよ。

 あとで聞いたら爆発してから1時間半ぐらい経ってるんですよ。1時間半経ってるのに東電からはそのこと自体も連絡がこないんですよ。

 そういう行き違いというよりは、事実関係を私のいるところに伝える機能はほとんど麻痺してました。東電は。

堀:
 木野さん、ベントについて少し補足の説明をしていただきたけますか。

木野:
 ベントというふうによくいろんなところで言いますけれども、要するに格納容器というのがあって、その真ん中に原子炉があって、その中に燃料は入ってるんですね。

 この中で冷やせないと燃料が溶けてしまって、溶けると放射性物質を含んだものがこの外の格納容器のほうに出てきます。
 そうすると中の温度が上がって中の圧力がどんどん高くなっちゃうわけですね。

 あまり高くなるとこの格納容器が破損してしまって、破損するとさらに放射性物質が外に出てしまうので、それを防ぐために意図的にベントラインを使って、煙突から放射性物質を人為的に出す作業というのがベントです。

 細かい話を言うと、直接出たり、この水の中を通したりといろいろあります。ただこの間にここにもいくつかモーター(上図だと黒いマーク)があって、そこにいろいろ弁がついてるんですね。
 弁がいっぱいついていて、その弁を組み替えていくことで配管のラインを構成して外に出るようにします。

 普通だったら電気で動かせばいいんですけど、この時は電気がないので12ボルトのバッテリー、車のバッテリーをはずして、つなぎ替えて動くようにしたりとかいう作業を、この建家自体が真っ暗な中でやっていたのが相当大変だったのかなというふうに思います。

堀:
 東京電力の経営幹部の情報伝達や組織とのかかわり方には大きな問題があります。
 一方で、この暗闇の中、高放射線量の中、津波被害と余震の中、このベントに至るまでの作業員の方々は……。

木野:
 作業員は大変だったと思うんですよ。
 結局、現場は現場でやることはその場でできることは当然やっていたと思うんですね。ただ準備不足はもちろんあったと思います。

 それは福島第一は三つがメルトダウンして福島第二は問題がなかったわけですから、ただ津波の被害の影響の差もありますけど。
 そのあとの対応に1Fと2Fでは相当、対応が違っていたので、その辺はあるにせよ、現場ではそれでもやれることはやっていたのかなとは思います。

 ただ一方で、そういう何をしていたかを含めて情報が全く外に出ていなかったというのは本当にそのとおりで、今でもよくわかんない状態なので、ちょっとその辺ははっきりさせておかないと次の事故が防げないと思います。

堀:
 今でもはっきりしていないというのは理由はどうしてですか。情報は公開されていないからですか、それとも記録がないからですか。

木野:
 情報が公開されてないですね。あとは今言ったように記録がないと。
 要はテレビ会議の映像も事故から24時間分というのは音声が全然残ってないんですね。出てきたのはようやく次の日になってからなので。

堀:
 そうか、直後の24時間はないんですね。

木野:
 音声がありません。本当にないかどうかわかんないですよ。
 東電は「音声はない」というふうに言ってるんですけれども、結局そのあとも音声が途切れ途切れだったりして、要するに検証ができない状態になってしまってるので、それはちょっといかがなものかなとは思いますね。

堀:
 青木さん。質問ぜひお願いします。

青木:
 はい、先ほど。12日ちょっと過ぎても大丈夫ですか。

堀:
 まず12日の範囲内でお伺いできたらと思います。

青木:
 はい。11日のときからもうやってたと思うんですけど、SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の話でも大丈夫ですか。

堀:
 どうぞ。

青木:
 同心円状の避難についてSPEEDIの情報があれば違う判断があったと思われますか。
 そしてSPEEDIの情報は官邸が23日になってようやく公開しましたけれども、菅さんのお耳に入ったのはいつでしょうか。
 補佐官の方々が結構、斑目さんのところに出入りされていたと思うんですけれども、官邸スタッフはいつ知ったのかということについてお伺いしたいです。

菅:
 まず、私自身はSPEEDIというのは相当あとになって説明を受けるまでは、私自身が事前に知ってたかというと全く知りませんでした。

 あとで聞いてみると、今言われたようにいろんなシミュレーションモデルで、確か文科省の管轄でそれを管理してたわけですね。ですから早い段階から知ってた人はおられたでしょうけども、私自身は全く知りませんでした。

堀:
 文科省が管轄して、そのあと私もなぜSPEEDIが早く公開されなかったのかというのが相当いろんなところでも突っ込んだりしたんですけれども、そもそもその後の発表では「いや、SPEEDIは公開しなかったとしても使い物になってなかったんだ」というような言い方をしてましたよね。きちんと計測ができてなかったんだとか。

青木:
 それはいろいろ見方があってですね。使えた部分もあるし使えなかった部分もあるし、ただ風向きが15日はこう伸びてましたねっていうのは見られるっていうことですね。

堀:
 そういう情報がもし共有されていれば、まさに住民の皆さんが放射線の高いほう高いほうに逃げなくてもよかったんじゃないかっていう、そういう指摘でしたよね。

青木:
 はい。

菅:
 それはそのとおりで、1日か2日後ですね。
 逆に海の側から北西に流れて、それで飯館村のほうにかなり高い線量の放射能汚染物質が行ったわけで、その段階でそれを警戒することができれば、もう少し何らかの対応ができたと思いますけれども。

堀:
 菅さんの周り、例えば文部科学大臣をはじめ、そしてもちろん電力会社、経産省、原子力関係の専門家、つまりベントを行うということは風によって放射性物質の拡散の状況が変わってくるからこういう対応が必要だとか、そういうこと進言する人や、そういう情報を持ってくる人はいらっしゃらなかったっていうことですか。

菅:
 少なくとも最初の1日、2日、3日の中で、私は残念ながら事前の知識を含めて、そういうコンピューターのシミュレーションを文科省が持ってるっていうのは知らないし、「こういうものがあるから使ったほうがいいですよ」ということを誰かが言ってきたかというと、残念ながらその時点では私に対して言ってきた人はいなかったので、わかってる人がもっと早くそれを使って、ある程度の予測ができればよかったと思いますが、そこは大変申し訳ないと思ってます。

堀:
 文科省のほうはいろいろ把握はしていたようですね。

木野:
 当然、文科省はそれはわかっていて自分たちは使いながらモニタリングカー走らせて、高いところをピンポイントで測ったりはしてたので、彼らは把握してたんです。

 それで、さっきのSPEEDIが使えるか使えないかの話で言うと、今回の使い方に関してはSPEEDIのマニュアルがあるんですね。どうやって事故のときにどう使うかっていう。そのマニュアルに従えば本来は使っていたはずのものだったんです。

 だからそういう意味では明らかにマニュアル違反の使い方をしていて、細かい話をすると「使えなかった」っていうのは、要するに原発からどのぐらいの量が出てるのがわからない、その情報がないので使えなかったっていうんです。

 しかし、マニュアルではそういう状態のときには、単位放射放出量といって、1時間当たり1ベクレル出たことにしてシミュレーションしていくっていうのが決まってるんです。

 だから11日から動かしていたので、しかも海外でもそういう使い方をしてる部分はあるので、そういう意味では明確に今回のマニュアル違反だった部分があるというふうに僕は理解してます。

堀:
 どこのエラーだったと考えればいいですか。

菅:
 いろんな問題があるので一概に言えませんが、今のSPEEDIの問題で言えば、そこまで私、詳しいこと知りませんでしたけども、そういう単位量が出る。つまり私もそのあとで聞いたのは「どれだけ出たかわからないから使えなかったんだ」みたいな説明を聞きましたけども、その時点で言えば、単位量が出たとしたらどうなるかっていうことができるのは、文部科学省だったと思います。

■最後は命を懸けても「決死隊を作ってでもやる」という吉田所長の言葉

堀:
 そして時間を進めましょう。

 オンサイト関連、総理らが、総理官邸を出発して第一原発に向かいます。
 先ほど冒頭、菅さんから説明がありました。現場の実態を直接見聞きする必要があった。それだけ東電から情報が上がっていなかったということでした。

 7時10分、菅総理が福島第一原発に到着。
 8時、福島第一原発を出発。
 8時37分、東電が福島県に避難状況を確認のうえでベント実施を連絡。
 14時30分、1号機はベントを実施。

 オフサイト関連ですが、原発建屋の周辺、敷地外です。福島県がダストサンプリング実施し、ヨウ素131、セシウ137などを検出。原災本部事務局はこの結果をほとんど公表していませんでした。すべて公表されたのは6月です。一部のデータは地震被害情報と同時に公表されています。

 住民の皆さんにとって、周辺住民の皆さんにとって一番大事な情報は公開されていなかったということでしたよね。

 原子力安全・保安院が事故評価を国際原子力・放射線事象評価尺度(INES)のレベル3と国際原子力機関(IAEA)に報告をしたという状況でした。

 本当にこの情報共有の在り方は悔やまれる点が菅さんご自身いろいろおありなんじゃないかなと思いますが、住民の避難に向けて、本当は両輪で必要なこの情報というのが公表されなかったというのは、いったい何が起きてたんでしょうか。

菅:
 先ほど申し上げたように、官邸の中でも、班目原子力安全委員長といろんな状況、わかった範囲の状況を把握して、3キロと5キロとか広げて一定指示してたことは事実です。

 ただ、先ほどから言ってるように、ここでヨウ素とかセシウムが検出されてるけど公表しなかったっていうのは、私の記憶の中でこういうことがあったというのはすぐは思い出せないんですけども。
 いずれにしても先ほどおっしゃったようにそういうことが起きたときに、どこが中心になってそれを取りまとめてどうするかっていうことが、言ってみれば官邸はもちろん司令塔なんですけど、司令塔といっても原子力の知識を持ってる、あるいはこういうことの知識を持ってる司令塔にはなってませんので、そののち、それに近いものが15日段階でできてくるんですが、その段階では大変申し訳なかったと思いますが、必ずしもそういう情報が判断できるかたちで上がってきてなかった。
 あるいは判断できる人のところに伝わってなかったということがあります。

堀:
 しかも皆さん、忘れてはいけないのは、津波、大地震の災害と併せての原発事故ですから、非常に広範囲にわたって地震津波の状況把握や対策。
 そして長野県でも大きな地震が発生したりとかしていて、原発だけにかかわりきれないというか、官邸の機能としても国の機能としても複合災害の備えというのができていたのかというのもポイントの一つだと思いますけど、体験されてみてどうでしたか。

菅:
 これは全くおっしゃるとおりで、あれだけの地震なり、特に津波であれだけ大勢の方が亡くなって、さらにはまだ生存者がおられるんじゃないかということでの調査に、特に12日の朝からは入ってましたから、それと並行して原発事故がだんだんと拡大していくのがわかって、ある段階ではそれも撤退をせざるを得ないという場面もありました。

 今でも私が大変申し訳ないと思ってるのは、確か12日でしたか、13日になってましたか。原発事故のほうの避難範囲に入った地域で起きたことです。

 その地域におられた例えば病院にいたお年寄り、あるいは老人施設にいたお年寄り、そういう人たちに避難してもらうために、どこかで用意したバスに乗っていただいて、そして目的地に向かったんですが、ものすごい渋滞もあって、結果的に着いてもそこがいっぱいだとかいろんなことがあって、24時間どころか48時間以上かかって、そういう皆さんが目的地に着いたときに、バスの中でかなりの方が命を落とされてたと。このことは今でも、私は大変本当に申し訳ないし、悲しい思いをしてます。

堀:
 だからこそ原発の避難の専用道路の設置などが必要だとかいわれていますが、いまだにそうしたものの建設というのは進んでないのが全国的な状況ですよね。

 ここで番組視聴者からの質問を紹介します。第一原発の視察に関して、菅総理に何かあった場合に総理の代理はどなただったのでしょうか。その代理の方に、視察前お声がけはされたのでしょうか。
 また、亡くなった吉田所長とお話しされて印象に残ったエピソードがあれば教えてくださいという内容です。

菅:
 もちろん私が行くときには、官房長官であった枝野さんには話をしたんですが、彼は慎重で「やめたほうがいいんじゃないですか」と言われました。

 しかし私は「私の判断で行くから」と言いました。あと、これは法律的かどうか別として、実質的には私がいないときの対応は枝野官房長官に頼んで行きました。そしてもう一つは何ですか。

堀:
 亡くなった吉田所長とお話しされてのエピソードについてです。

菅:
 これは現地に行って免震重要棟にまず入ろうとしたら、大勢の人が床に横たわって休んでおられて、かなり線量が高くなってたので、外から入ってきた人に線量計を当てて私も線量計当てられたんですね。
 「いやいや、私は東電の関係じゃなくて総理なんだ」と言って、そして2階に上がって吉田所長に初めて会いました。

 彼は非常にものごとがクリアでした。ベントをしなければいけないと言っておいて、「もう何時間も経ってるのになぜできないのか」というように聞きましたら、先ほど言いましたかもしれませんが、普通だったらスイッチ一つで弁を開ければいいんだ。
 しかしそのスイッチを押しても電気が来てないんで弁が開かない。そこで人間が行って、弁を開けなきゃいけないけど、放射線量が高いので、5分とか10分で入れ替わり立ち替わりやらなきゃいけないので、非常に難しい状況だと。
 しかし最後は命を懸けてもといいましょうか、決死隊を作ってでもやりますと。
 その言い方を含めて、非常にメリハリがついてましたので、私は非常に信頼感を感じました。

 私は最後には「わかりました、頑張ってください」ということで離れたわけです。

堀:
 吉田さんご自身はその後の吉田調書の中でも、かつて第一原発の非常用電源が水漏れによって機能しなかった事故というのを証言されていて、津波が襲来するというのを聞いたときに、まず過去にあったトラブルのことを思い出したと。
 その当時は東京本部のほうで対応されたと言っておられます。

 何よりも原発のもろさというか、何かあったときのエラーの起こり具合というのをよく把握されてらっしゃったんじゃないかなと逆に思います。

菅:
 多分そうなんでしょう。もちろん私はそんなに専門家という意味での知識はありませんから、吉田所長はそういう中でも、ぎりぎりベントをやらなきゃいけないということと、やるためには人が行かなきゃいけない。人が行くということは非常にリスクが高いけれども、そのリスクを取ってでもやりますからという、その決断を聞いて、私はそれ以上私から申し上げることはないので、「じゃあ、頑張ってください」ということで離れたということです。

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