話題の記事

「俺が倒れた時のために曲を全部覚えてくれた」アニソンの帝王・水木一郎が明かす、24時間1000曲ライブ成功の裏にあった影山ヒロノブとの感動男気エピソード

 ニッポン放送アナウンサーの吉田尚記さんが番組ホストを、声優の中村繪里子さんがアシスタントを務める、ニコニコ生放送番組「吉田尚記 dスタジオ」。

 今回は、今年歌手デビュー50周年を迎え、持ち曲は1200曲を超えるという“アニメソング界の帝王”水木一郎さんがゲストで登場。24時間1000曲ライブや、小学校の道徳の教科書に半生が掲載されるなど、年表とともに水木さんとアニソンの歴史を振り返りました。

左から水木一郎さん、吉田尚記さん、声優の中村繪里子さん。

―関連記事―

アニメの力すごい。「ゼーット!」でおなじみ水木一郎さん“Wikipedia”内で安倍総理大臣よりも多い言語で紹介される

ゼーット!の水木一郎は、二代目“うたのおにいさん”だった!? 「未だにアニソンが好きな人はびっくりしますね」

―人気記事―

電波ソングブームの先駆け『さくらんぼキッス』は黒歴史? 作詞者・KOTOKO「あれは今後、お葬式で流すだけにして(笑)」


24時間で1000曲ライブを完走! 90年代を振り返る

中村:
 では1990年代にいってみましょうか。アニソン界としては、こういう動きがありました。

水木:
 『おどるポンポコリン』とかね。『めざせポケモンマスター』もね。これはミリオンセラーでした。

吉田:
 CD自体がめちゃめちゃ売れていた時代ですね。

水木:
 『残酷な天使のテーゼ』は誰しもが歌うからね。

中村:
 カラオケでもトップのほうに未だにいますね。

吉田:
 アニソンとか外して、日本中で一番歌われている歌とかになっていたりしますからね。

中村:
 その中で、水木一郎ヒストリーを見ていきましょう。ゴールデンディスク賞特別賞。この時点で25年の歌手生活を続けていらっしゃるということですが。

水木:
 期待していない賞だったので嬉しかったね。

吉田:
 そのあと5年を経て歌手生活が30年になられたときに、なんと5000人の観客が見守る中、1000曲の持ち歌を24時間で歌いきるという前人未到のソロライブ「水木一郎24時間1000曲ライブ」に挑み、見事成功。

(一同拍手)

水木:
 ギネスっていう話もあったのですが、まず誰も破れないだろうと。それから24時間で1000曲を歌うってことは、フルコーラスだと絶対に無理なんですよ。ワンコーラスずつになる。

 「それは1000曲に入らないよ」っていうやつがいたら、すいませんってなっちゃうけれど。でも一応、僕の中では1000曲歌いました。見てくれた人の心に残っていればそれでいいと。

中村:
 途中で声が枯れそうになったりとかは……。

水木:
 ありましたよ。僕、『仮面ライダー』シリーズの曲を32曲歌っているんですけれど、それを歌っているときに「ダメだ……」と思ったら、野外でやっていたから俺のところにバッタが飛んできたの。

中村:
 え~!

吉田:
 仮面ライダーを歌っていたらバッタが飛んできたんですか!?

水木:
 「誰も信じないから写真撮れ!」って言って、マネージャーに写真を撮らせました。それでまた戻って。原作者の石ノ森章太郎先生がお亡くなりになった直後だったから、先生来たよ! と思って。よし、頑張るぞ! って頑張って。

吉田:
 やっぱりヒーローソング、アニメソングだからそれができるんだと思う。辛い時にヒーローソングがあったから大丈夫だったみたいな人は絶対にいますよ。

水木:
 1000通りのヒーローの気持ち。楽しいことや、辛い時に戦う時、どんどんヒーローの気持ちを歌ってきた。それで事務所にある何百というフィギュアを、全部河口湖ステラシアターに向けて「応援しろよ、お前ら!」って言って。成功したので、全部今は寝かせています(笑)。

一同:
 (笑)

吉田:
 もうこの辺から確固たる地位というか、アニソンは世間に認知された時代が。

水木:
 影山ヒロノブくんたちが、俺が倒れたときのために、全部俺の歌を覚えて。遠藤正明とか堀江美都子とか、みんな俺の歌を覚えてくれた。俺が倒れたら他のアニソン歌手が出て歌う予定でみんな覚えてきたの。

影山ヒロノブさん。
(画像は影山ヒロノブ公式サイトより)

中村:
 そうしたら……。

水木:
 なんだ、アニキちゃんとやっちゃってるじゃんって。それで遠藤は温泉に行きやがった(笑)。

一同:
 (笑)

水木:
 先輩が歌ってるのにね(笑)。まぁそれで成功して、これで普通だったら「俺、すげぇな」「歌手としてすごいな」と思うだろう? でも全然思わなかった。

 まだまだ僕がやらなきゃいけないことがある。一人、二人、三人ぐらいでアニソンを何十年も頑張ってきた人たちがいて、そういう頑張ってきた仲間もいるのに、俺だけ次へ行くことはだめでしょう。まだやらなきゃ。まだみんなでやるぞと。

中村:
 みんなでやってきたアニソンがすごくなることを目指して。

水木:
 そう。このときはまだそんなにお茶の間に浸透してなかった。

JAM Projectを結成。2000年代はアニソンも注目されはじめるように

吉田:
 そろそろ世紀をまたぎます。

中村:
 2000年代に入りました。

吉田:
 この辺になると、どの曲を選ぶかは趣味だな。

中村:
 キャラクターソングとかも表題として選ばれる時代になりました。

水木:
 水樹奈々ちゃんも映画でヒーローものを撮っているときに、マネージャー役で同じ録画場所に座ってた。スターになって随分嬉しくて。

水樹奈々さん。
(画像は水樹奈々公式サイトより)

吉田:
 この頃から海外に対して活動が激しくなってきます。

中村:
 2000年にJAM Projectが結成されます。

水木:
 そうですね。松本梨香とか。俺がリーダーになって影山を中心にやっていこうということになって。でも俺は、すごく悪いけど自分の仕事が忙しくて、JAM Projectに参加すると、リハーサルとかあって、いろいろな仕事を断らなきゃいけない。なので俺が非常勤宣言をして、影山くんがリーダーになって、頑張って十何年も経ちます。

現在のJAM Projectのメンバー。
(画像はJAM Project公式サイトより)

吉田:
 ディミトリ・フロム・パリだったり、ジョナサン・ロスがプレゼンターを務めるイギリスBBCの番組に出たりとか。パリで開催のJAPAN EXPOのオープニングライブも。

水木:
 忙しい2000年代でした。

中村:
 40周年ライブもあったり。濃い2000年代でした。

「アニメ」の最新記事

新着ニュース一覧

アクセスランキング