俳優・斎藤工が監督を務めた「13年消息不明だった父の葬儀」がテーマの映画『blank13』、元は“コントの企画”だった
外国人に感情移入させた高橋一生の演技
中井:
これはいけたなと思うタイミングがあると思うんだけど、どこでどう思ったの?
齊藤:
やっぱり高橋一生さんですね。一生さんとはお会いしていない段階で、台本についてのやりとりを事務所さんと一生さんと何度もさせていただいて、20稿まで書き直して……。一生さんはずっとスケジュールを空けていただいていたんです。でも一生さんの心境的なことも含めて、まだ出演のOKをいただけないという状況があって、会いに行ったんです。
劇場でお芝居をされていて、そのあとに時間を作ってもらって。そのときに本当に赤裸々にいろいろなことを伺って、内容は伏せますが、その瞬間に一生さんにオファーするのをやめたんです。僕がオファーすることが彼にとって本当に酷だなということがわかったので、僕は引いたんです。
本当に申し訳ないことをしていたなと思っていて、その21稿目ではないんですがプロットを書き直したんですよ。
いままでのものではない角度で書き直した紙があったので、作って行った手前、「これ以上僕はオファーを無理強いしませんが、これを作ってきたので読まなくてもいいので持って帰ってください」って渡したんです。
後日、一生さんとの対談ではじめて知ったんですが、その日は劇場の近くから徒歩で帰られたらしくて、読みながら帰って、いままで不安だったものがこれは大丈夫だと思ってくれたらしくて。
僕の中では、高橋一生さんを失ったと思ったんです。次の候補の方をプロデューサーと挙げていたんですけれど、誰にも連絡はしていなかったんです。僕らも放心状態というか……。
中井:
高橋一生さんだといけるなという思いが強かった?
齊藤:
そう。一生さんでしか書いてなかったから。そうしたら翌日、一生さんから連絡をいただいて「やりましょう」となって、やることになりました。渡した紙だけではなくて、僕との会話の中でもいろいろなことがあって、そこから一生さんが自分にあった体験も含めて、この台本に一生さんの事実を落とし込んでくれたんですよね。
たとえば、本当に悲しいときは人間は涙をするという選択肢以外にも感情の幅ってあるじゃないですか。そういった部分のことを感情描写、感情の断片みたいなものが、それまでの台本にあったんですけれど、それを一切無くして生ものとして、その役者さんがどういうふうな表情をするかということに託していく、という台本に変えていったんですよ。
「こういう感情になってください」というのを全部排除した台本になっていったのは、一生さんとの出会いでしかないです。この作品の一生さんって、能とか狂言の世界。無表情ということではなくて。
中井:
出ていく部分以外の秘めているものというか、溜め込んでいる何かがずっと漂っていて、それを観客側が汲み取っていくような、そういう作品だなと見ていて思いました。
齊藤:
「この表現というものは、どういうふうに映画として映るんだろう?」という部分は、僕も未知の世界ではあったんですけれど、昨年いろいろな映画祭に行かせていただいて、インディアナポリスにハートランド国際映画祭というのがあるんですけれど、お客さんもほぼシニアの方たちなんです。
スタッフさんもシニアの方が多かったりして。最初は字幕を見ながら文句を言っているんですよ。文字から始まるんですけれど、「いや、そうじゃない」というようなことを声に出して言っちゃっているんです。
僕も立ち会って観たのですが、だんだん空気が変わっていったなというのがわかって、アウェーからホームじゃないけれど、空気が全然変わっていって、見終わった後に一番文句を言っていたおばあちゃんが、泣きながら僕にハグしてきて「これはいま、私に起こっている問題だ」と言われて、アメリカ人のマダムが一生さんに感情移入していたんですよね。
やっぱり一生さんがこの作品で表現してくれたものっていうのは、日本の方だけではなくて、世界中の人が自分も投影できる“間”というものを表現してくださったんだなって。どんな賞をもらったことよりも嬉しかったですね。
鈴木:
俳優としてかかわった作品と、監督としてかかわった作品のリアクションや評価を感じるところって、何か違いはありますか。
齊藤:
役者とは違うのかもしれないですけれど、基本的に先ほどのおばあちゃんの話ではないですが、通じたという瞬間があると、どんなかかわりでも嬉しいというのはあります。たとえば、今回は芸人さんもたくさん出てくれているのですが、外国ではみんな役者だと思って見てくれるんです。
ローカルを極めるとグローバルになる。『おくりびと』から得たヒント
齊藤:
この作品も、『おくりびと』が約10年前に葬儀、火葬のインパクトを世界に残したというのはヒントになっていて、僕らが当たり前だと思っている冠婚葬祭の儀式、それが日常的であればあるほど、海外からしたら奇妙だったり特徴的なんですよね。その部分って実は映画的だなと思っていて……。
鈴木:
日本の強みでもありますね。
齊藤:
そうですね。僕らが海外の映画を観るときもそうじゃないですか。その国の日常の中に奇妙さと共通点を探したりという見方をする上では、日本って奇妙なエッセンスがいっぱいあるじゃないですか。
ちょうど映画の制作準備をしているときに、友人の火葬場に立ち会って友人が焼かれている時間の待ち時間ってあるじゃないですか。いまは1時間くらいなんですけれど、あの時間ってすごく不思議だけど、僕らは受け入れているじゃないですか。あの時間を描きたくて。「何だこの焼き待ち時間」って思うじゃないですか。
でも習慣的にこういうもんだと受け入れちゃっている。葬儀、特に火葬場の裏側と待合室にカメラを向けていいという場所を結構長い時間探しました。足利市にあったんですけれど。
鈴木:
大変でしたか。
齊藤:
大変でしたよ。みんな見せたくないですし。
小林:
でも本当に不思議ですよね。焼いている人の横でお酒を飲んでご飯を食べてるんですよ。すごく変な気がしませんか。
中井:
いままで生きていた人が動かなくなって、焼かれて、骨になる。それを俺たちは割と冷静に見守りながら、その人に関係ある話だったり関係ない話だったりを、焼いている隣で飲み食いしながらしていて、本当にわけがわからない状態があるんでしょうね。
鈴木:
それを知らない外の文化の人から見たら、すごく違和感がある。
中井:
そもそも火葬という文化がないからね。
小林:
変な感じはするでしょうね。
鈴木:
ローカルを極めたことがグローバルになる。日本にしかないものだから、これが世界の人に届くということがあると思うんですよね。