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なぜ豊島将之は藤井聡太に6連勝したのか?【流れゆく水のように 豊島将之竜王・叡王インタビュー 第1章】

第76期A級順位戦の羽生戦

──豊島先生が本格的にソフトを使って研究を始めたのは、公平性の点を重視して、(2015年に電王戦FINALに出場した)『Apery』が一般公開されてからだと過去のインタビューで拝見しました。

「はい」

──その後も様々なソフトが公開されてきましたが、豊島先生が『このソフトは研究パートナーとしてよかったな』と思ったソフトがあれば教えてください。

「うーん……基本的には新しいソフトを使って、という感じなんですけど。一番強いとされているソフトを。複数あったら、いろいろ試してみたり

「でも、技巧が出てきた時は、研究をやりやすくなったなと思いました

「感覚が、自分に近いというか、合うので。それまでのソフトは、『これ、無理攻めなんじゃないのかな? それとも自分の感覚がおかしいのかな?』って、ずっと疑いながらやっていた感じなので」

「そこのへんがピッタリくる……あんまり違和感なく使えるので」

「あとはそうですね、『そういう感覚が違うところから学んだほうが強くなるのかな?』と思っていた時期があったので」

──強くなったんですか?

「どうだったんでしょうねぇ?(笑)」

──はははは!

「わからないんですけど。けどなんか、羽生さんと私が指したA級順位戦で、私が初めてA級に上がったときの将棋なんですけど……」

 

 

 来た。
 私は思わず前のめりになる。
 豊島がこれから語ろうとする将棋については、必ず聞こうと決めていて、入念に準備をしてきた。
 それを豊島自身から進んで話してくれるとは……。
 この将棋は羽生に勝ってA級でも戦っていける手応えを得たという意味で豊島にとって大きな価値を持つが、他にも、豊島がビックリしたことがある。
 それは────

 

 

「そのとき、角を渡して、こっちは歩をたくさん持ってじっとしておくという順で。こっちが苦しそうながらも意外といい勝負というのがあって……」

「藤井聡太さんも、その棋譜を見て『感覚に驚いた』とコメントしていたのがあって」

「それは自分が昔のソフトから影響を受けていたので、そういう感覚になったのかなと思いました」

──無理攻めをしてしまう?

「無理攻めというか、角とか飛車とかの評価が低かったというか」

──駒の価値、ですか?

「ええ。昔のソフトは金銀の評価が高かったので。そういう評価が自分の中に残っていて……多分その後のソフトだと、そこまで極端なことはしていないはずなので」

「藤井さんは、もうちょっと後のソフトから使い始めていると思いますから」

──ソフトにあまり触れていない羽生先生や、触れるのが豊島先生よりも遅かった藤井先生にとっては、驚いてしまうようなものだったと。

「そういうところはあったかもしれません。でもそれは部分的に上手くいっただけかもしれませんし……」

──今おっしゃった将棋は、ご著書『名人への軌跡』にも収録されている、この将棋ですね? 第76期A級順位戦の羽生戦。

「あ、そうですね。はい」

──6四角と切っていくところ。実は私……この手をソフトにかけてきたんです。最新の。

「あ……」

──豊島先生の選んだ角を切る手は、浅い読みだと候補には上がってきません。けど、深く読ませると一瞬だけ出てきます。その後さらに読ませると、また消えてしまいます。蜃気楼みたいに……不思議な一手だと思いました。

 

 

 羽生は駒の価値について、金を6、角を9とする。角の価値は金のおよそ1.5倍。これは多少の差こそあれ、プロ棋士には共通の価値観といえるだろう。
 しかし豊島が戦った当時のソフトは、金を6とした場合、おおよそ角を8と評価していた。
 よって豊島は角を切ることをいとわない棋風となる。
 その後、ソフトは金を5.5、角を9.5として、伝統的な人間の価値観に歩み寄る。
 藤井がそこまで違和感なくソフトを研究に取り入れることができたのは、この価値観の修正が大きいと見ることもできるだろう。
 人間は自らの視点でしか物事を把握しないため、「藤井が成長してソフトを研究に取り入れられるタイミングになった」「藤井の棋風とソフトでの研究が噛み合った」と考える。それは否定しない。
 しかしソフト側から見れば、また違った結論があるはずだ。
 そして豊島は、ソフト側の視点からも物事を見ることができる、希有な棋士といえた。

豊島将之と藤井聡太

──豊島先生がA級に上がったこの年は藤井フィーバーが起こりつつあるタイミングで、熱局プレイバックのトップ10は藤井先生の将棋ばかり。豊島先生の将棋は入っていませんでした。しかし藤井先生は、豊島先生の将棋によく投票していて……この将棋の他にも、三浦先生とのA級順位戦に『二転三転の白熱の終盤戦。リアルタイムで観ていて、とてもおもしろい将棋だった』とコメントを寄せています。

「あ……そうでしたね」

──愛されていますよね?

「あははは!」

 豊島は笑うが、あながち冗談ともいえないと思う。
 藤井はインタビューなどで目標とする棋士を尋ねられることが多い。そのたびに「いない」と答えている。
 それは自身の発言が世間からどう受け止められるかをよく理解しているからだろう。
 だが、丹念に藤井の発言を追えば、誰の将棋を最も意識しているかは、伝わってくる。

 『将棋世界』2021年6月号に掲載された2020年度の熱局プレイバックでもやはり藤井の将棋が10局中5局を占めた。
 では当の藤井がどの将棋に票を投じたかといえば……。

 第1位 叡王戦第4局 永瀬拓矢vs豊島将之
 第2位 名人戦第3局 豊島将之vs渡辺明
 第3位 A級順位戦  豊島将之vs羽生善治

 何と、1位から3位までを豊島の将棋が独占している。
 もはや藤井は、豊島への気持ちを隠そうともしていない。いや、もともと隠していたわけではないのだろうが……。
 では豊島は、藤井のことをどう思っているのだろう?

 

 

──藤井先生のこういったコメントなどを丹念に拾っていくと、やはり豊島先生を意識しておられると感じます。ご自身ではそういうの、感じますか?

「いやー……どうなんでしょう?」

──豊島先生と対局されるときに、気負っているような様子などは見えますか?

「別にそういうことはないですかね」

──対戦成績で豊島先生が圧倒していることは、様々なところで取り上げられています。終盤で追い込まれてから大逆転といった将棋もありました。藤井先生が終盤で逆転するところは多く目にしますが、その逆ができる人がいるとは……。

「(6勝目となった)王将戦のあの将棋に関しては……王様が5九くらいにいたときは『もうダメだな』と思っていましたが、お互いに時間もなくなっていましたし。完全に諦めたわけではなく、しっかり考えていました。99%負け、という時もありましたが、自分も完全に負けるところまで読み切れていたわけではなかったので」

──以前のインタビューだと『豊島将棋は勝つにしろ負けるにしろ一方的になりやすい』とおっしゃっていました。しかし最近、たとえば竜王戦での羽生先生との将棋のように、終盤に逆転するような大熱戦が増えていると思います。あと永瀬先生との叡王戦のように、持将棋になったり。

「そうですね。長期戦になることは増えました」

「今の将棋は、序盤で差を付けづらいので。それで難しい将棋になりやすいです。評価値が拮抗するようにお互いが序盤を組み立てていることが多いので」

「そうすると……昔の将棋って、自分たちが上手く指せるか指せないかで選んでいたので。戦型を。中終盤とかもシンプルな形になりやすいんですけど、最近の将棋は、ねじり合って難しいので。そういうところもありますし……」

「自分の将棋というところでは、無冠のときは、無冠だったけど勝率もよくてレーティングも高かったという時期は、序盤戦で有利になることが多かったので。序盤の時に優位に立って、そのまま勝ちきることが多かったです。だけど熱戦になると、負けてしまうことも多くて」

「あとは、タイトルを獲れていないので力が入りすぎて、最後のほうで体力切れになったこともありました」

「今は、序盤では他の棋士と差を付けられなくなって。むしろこちらが少しでも気を抜くと、悪くなってしまうこともあるんですけど。でも、たくさん経験できたというか」

「序盤戦でリードできて、そういう勝ちパターンを持っていたときに、対局もたくさんしましたし、タイトル戦とかにたくさん出て、いろいろ経験してきましたし、その部分で中終盤とか落ち着いて指せるようになって。そういうところが今は活かせているのかなと」

 

 

 豊島と藤井の将棋観の違いは、ソフトを取り入れた時期……正確には、扱い始めた頃のソフトの棋風の違いにある。
 その点は、豊島の分析する通りなのだろう。

 しかし……だとしたら、疑問がある。

 豊島と同世代の棋士たちは、同じようなタイミングでソフトを取り入れているし、駒の価値の件についても同様の発言をしている。
 なのになぜ豊島だけが、藤井に勝てるのか?
 同世代で豊島よりも早くタイトルを獲った棋士もいるのに、なぜ……?

棋聖戦に負けたときが一番苦しかった

──ニコ生だと、同世代のライバルのタイトル戦などが中継されることもあったと思うんですけど、そういうのをご覧になることは……?

「棋譜だけ見てることが多かったですかね。特に当時は。何か、あんまり……全体を見たくないな、というのはあって(笑)」

「自分の将棋に取り入れられるものがあれば取り入れたいけど、なんだか……タイトル戦に自分が出れていなかったら、そんなに見たくないなというのはありました」

──私が豊島先生と初めてお話しさせていただいたのは、佐藤天彦先生と稲葉陽先生の名人戦が岐阜で行われた時でした。豊島先生は解説で来られていましたが……やはり内心、悔しさというものがあった?

「あのときはもう、慣れてきて。他の棋士の方もタイトルを獲って。同世代で活躍されていて。そんなに……まあ、まあ…………いいなぁとは思いましたけど。うらやましいなあとは思いましたけど、冷静に見られる感じで。自分もA級に昇級できたところでしたから」

──焦りなどが大きくなってきた頃というのは……具体的なエピソードがあれば教えていただきたいんですが。

「ああ、苦しかったエピソードですか?」

──端的に言えばそうなっちゃうんですけど(苦笑)。

「なんかずっと上手くいってないような感じは、ちょっとずつ焦りに変わっていったというか……」


「初め、王将戦に20歳で挑戦して、負けて。まあでも負けたときは『まだいくらでもチャンスがあるし、明らかに久保先生と自分では実力に差がある』と思っていたので。2勝できましたし、そんなに……負けたから当然、悔しさはありましたけど。先が……先に、希望が広がってるようなイメージはあったんですけど

「その次の年も、王将リーグは結構いい成績を取ってたんですけど、途中で負け続けてしまって。2回くらい連続で挑戦の一番があったんですかね? 確か。それを連敗して、挑戦できなくて」

「そのへんから、ちょっとずつ……って感じですかね」

「そのころは、同年代というか2~3年年上くらいのグループの中で、自分がわりと先のほうを走っているような感触はあったんですけど。まあ成績的にも」

「でもやっぱり、うーん…………そこまで、棋力が伸びていっていないな、というのがあって

「その後……タイトル戦に全然縁が無くて。そこから数年は。で、その数年は……まあ順位戦や竜王戦で昇級はできていたんですけど、それでは満足し切れていないというか」

「そういうのも、今にして思えば、一つ一つ積み上げていくのも当然大事ですから、そこで達成感を感じて、それでやる気に変えていければよかったと思うんですけど……あんまり、そういうふうにも思えなくて」

「それで、そうですね……だんだん、苦しくなっていったというか

「で、その後、電王戦に出て」

「そうですね。電王戦に出て、王座戦や棋聖戦のあたりは……どういうふうにやったらいいか、まだわかっていなかったというか」

「将棋ソフト使っても、どういうふうにどうなるというのが、ぜんぜんわかっていなかったので」

「棋聖戦で、羽生先生に挑戦して負けたあたりは……ああでもあのへんは、将棋は相当一生懸命やっていたんですけど。それまでよりも特に量を増やして、やっていて」

「でも結局、最後のほう全然勝てなくなって終わったので……」

思えば、あのへんが一番苦しかったですかね。棋聖戦、負けたあたりが

「うん。そのあとは何か、やりかたを変えて。成果が割と出たので。レーティングも上がっていって、勝率も高くなって。A級に上がれたりJT杯に優勝できたりしていたので」

「棋聖戦に負けたときが、一番……本当に、どうしようもなかったというか……」

「そこからは、将棋の内容は上向いてはいくものの、タイトル戦に出たりとか結果を出したりできないというところなので」

──……過去のインタビューに『ミスをすると自分が許せなかった』という発言があったんですが、やはりその時期は、特に自分を責めるようなところはあったんでしょうか?

「ああー……ありましたね。やっぱり」

──自分に向かっちゃうんですか? 相手が悪い……というか、相手が強いからとかではなく。

「うぅーん。でもやっぱ、自分に向かっちゃいますね。特に棋聖戦の第四局とかは、もちろん羽生先生はムチャクチャ強いんですけど……歩を打って成り捨てたりしてるわけですよ(苦笑)

──『いまのナシ!』みたいな感じでね(笑)。あれはびっくりしました。

「それをこっちが咎めに行って、負けているので(笑)。だから、何て言うか……あのへんは、キツかったですね……」

──向こうが間違っていることを両者が認めているにも関わらず、それでも負けたという……。

「そうですね……」

──自分のやりかたがおかしい、という考えになったんですか?

「時間はたくさんかけていたんですけど……やりかた、というか、『こうやったらこうなるだろう』というのが間違っていたんだろうなと、今となっては思うんですけど」

──どんなことをやっていたか、具体的に教えていただけますか?

「当時取り組んでいたのは…………」

 

 

 これまでのインタビューでは、豊島が人間との研究会を全て辞めてから具体的にどうソフトを活用していたのか語られることは、ほぼなかった。
 おそらくそれは、豊島自身が、自らの使い方について『あまりよくなかった』と感じていたからだろう。
 豊島は語り始めた。
 耳を疑うような内容を。

『中盤が強くなりたい』と思い、矢倉でソフトと指し続けていた

「……あの、電王戦終わってからも、そんなにはソフトを使っていなかったんですよ」

「使ってはいたんですけど、指した将棋の振り返りとかに使っていて。結構、補助的に使っていまして」

「で……それでも『そんなに成果が上がっていないな』と思っていて」

「同世代の棋士がタイトル取ったりしていたので、『もうちょっと思い切って踏み込んでいかないといけないのかな?』と思って……」

「棋聖戦の頃は、ソフトが一番強いのは、中盤の、ねじり合いの部分だと思ったので。私は」

「実際、YSSとかと指しても、序盤とか終盤で勝負ができるなと思っていたので。中盤が長くなるとキツくなるなと思っていたんですよ」

「だからやっぱり中盤が強いと思っていて」

「だからそこを自分に取り入れたいと思って。だから、なんか……棋聖戦の将棋も、矢倉が多かったんですけど、その頃は矢倉ばっかりソフトと指していて」

 

 

 ……ん?
 豊島の発言に引っかかるものを感じた。
 指す? 矢倉ばかり? ソフトと?
 まさか……。

 

 

「矢倉とかそういう、中盤がねじり合いになるような、そういう将棋をやって」

「苦しいんですけど、なんていうか……どれくらいまで耐えられるかというか。中盤、どのくらいまで互角で耐えられるかということをやっていて……」

「まあ、あんまり……ほとんど勝てないですし……」

──た、対戦していたということなんですか!?

「ああ、対局していました」

──矢倉にして?

「矢倉にして。局面は、途中まで自分で作って」

──指定局面で?

指定局面というか、互角くらいの局面にして。作って、そこから指していましたね。ひたすら

──…………。

 

 

 中盤が強くなりたい。
 だからソフトと中盤から指す。ソフトが最も力を出せる、矢倉で。
 狂気を感じた。
『若返りたいから、赤ん坊を食う』くらい短絡的な行動だと思った。それができれば、みんなやってる。電王戦を見れば、できないことなんて誰でもわかる。矢倉でソフトに勝った人類など、一人もいない。

 豊島が棋聖戦で羽生に挑戦したのは、2015年6月。
 その3ヶ月前には電王戦FINALが行われている。
 豊島は出場しなかったが、前年に行われた第3回電王戦で人類唯一の白星となった豊島の将棋を分析し、人間の勝ちパターンを磨いたことで、プロ棋士の側が勝ち越すことに成功している。
 電王戦でコンピューターと戦った他の棋士たちは、いかに人間の持ち味を引き出し、ソフトの長所を消すかを考えていた。
 ソフト開発者側もまた、いかに人類に序盤の作戦を狙い撃ちされないかを考え、指し手を散らすプログラムを組み込んだりした。

 しかし同じ頃、豊島は人間の長所を封じ、ソフトの最も強いところを引き出して、戦っていた。
 豊島はコンピューターと片手を鎖でつなぎ、殴り合ったのだ。
 人間の持ち味を封じ、足を止めて、ただひたすら殴り合った。このやせっぽちの青年が、鋼鉄の身体と拳を持つ機械と、真っ向から。
 人間との研究会を全て辞め、一人で部屋にこもり、家族から『変人になるのでは』と心配されながら。

 しかも……しかも豊島はそれを、あろうことか羽生とのタイトル戦と並行して行っていた……。

 

 

「でも、なんか、それで……当時のソフトも、自分よりかはちょっと強いんですけど、全体的に見て。自分が勝とうと思ったら、序盤を工夫して良くしにいくか、あとは中盤の、その、戦い……ねじり合いになったときに、結構、一直線の将棋に踏み込んでいけば、終盤でソフトが頓死筋をうっかりすることがあるので。一手違いにしてしまえば、何局かに一局は勝てるんですけど。当時のソフトだと……」

「でも、それをやっちゃうと、人間同士だと粘りのない手になってしまうんですよ。中盤の指し手が。それだとあんまり勉強にならないのかな、と思って」

──人間の良さを封印して、中盤からソフトと対戦していたんですか……。

「まあ、どれくらい耐えれるか……というか、どこまで互角でいけるかという。だいたい最終的には負けるんですけど。耐えるような指し方をしていくと。互角でどれくらいまでついて行けるかということをやっていて……」

「そうですね。でもそれは、やっていて苦しかったですし

──そりゃそうですよ……。

「ふふふ。ほとんど勝てないので(笑)」

 


 冗談だろう? その条件で、たまに勝っていたのか……?
 私は叫び出したくなった。
 人間にそんなことができるなんて……あの当時でも現在でも、想像すらしていなかった。

「でも、初めの頃は結果が出てたんですよね。棋聖戦に挑戦するまでのあいだは、けっこう勝っていたので」

「けど最終的には体力が切れてしまったというか。タイトル戦で、いろんなところに行って対局しながら、それもずっとやっていたので(苦笑)」

──そんな……苦しいに決まってますよ。そんな、電王戦とタイトル戦を一緒にやってるみたいな……。

「途中からもう、将棋を指すのが……」

──イヤになってしまった?

「イヤ……には、なっていないんですけど。ボロボロになって。あと順位戦とかがぜんぜん勝てなかったですね。体力的な問題になったというか。家でそんなに研究とか実戦を指していなかったら、大丈夫だったんでしょうけど」

「順位戦で連敗したあたりで『これをこのまま続けたらヤバいことになる……』と思って(笑)」

「元のスタイルは、研究将棋というか、角換わりとか横歩取りとかがメインだったんですけど。戻したら勝てるようになって」

「…………という、感じでしたね」

──……当時の苦しみが、矢倉の再流行で活きてきている面はあるんですか?

「うぅーん…………やっぱり、違う矢倉ですかね」

「(ソフトと指していたのは)組み合う矢倉ですし。形としては、今とは違うような矢倉戦でしたけど。まあでも、序盤の決まっている形を研究するよりも、中盤の力を付けたいというのは、今でも思っていますけどね。それが目標というか」

──あの……今でもやっておられるんですか? ソフトとの対局……。

「今はもう。ソフトが強くなるにつれて、どんどん指すことは少なくなっていったというか」

 

 

 かつて囲碁のプロ棋士である大橋拓文六段から、こんな話を聞いた。
『コンピューターに2000敗して世界チャンピオンになった棋士がいる』
 その話を聞いたとき、正直に言えば、半信半疑だった。囲碁なら成立しても、将棋では難しいだろうとも思った。
 しかし……それと同じようなことをした人間が今、目の前に座っている。
 狂気の一人電王戦の末に、豊島は棋聖戦で羽生に敗れた。
 けれどその3年後の棋聖戦で羽生に勝ち、初タイトルを獲得。そこから一気に花開き、わずか1年で三冠。そして竜王名人へと駆け上がる。
 果たして豊島の無謀な実験は失敗だったのか? それとも……。
 話の濃度に息苦しさを覚えた私は、明るい話題で空気を変えようとしたが……。

 

 

──ドワンゴは、他の放送とは異なり、開発者の方々にもスポットライトを当てた企画を行ってきました。そういう企画をご覧になって、いかがでしたか? 個性的な人が多いなぁとか(笑)。

「確かに、開発者の方々は個性的な方が多かったですね(笑)。あっ、YSSの山下さんは、とても紳士的な方でした」

──そうですね。山下さんは人格的にも素晴らしい方で……。

「でも、ソフトはいいですよね」

──え?

間違った成長をしたら、バージョンを戻せばいいだけだから。人間は、そうもいかないので(笑)」

 

 

 そう言って笑う豊島の目を見て、私は……背筋に冷たいものを感じた。
 その笑顔には、引き返すことすらできない場所へと進んでしまった者の孤独と、人間から隔たってしまった自分への満足感のようなものが、同居していたから。

 同世代の棋士の中で……いや、人類の中で、豊島と同じバージョンの者は存在しない。
 だからこそ藤井聡太にとって豊島の指し手は驚きに満ちているのだろう。

 豊島将之の中には今も、狂気の残滓が鼓動している。

 

(続く)

第2章 最強の棋士像

第3章 そして、叡王へ……

 

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