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最強CPU将棋ソフト『水匠』VS最強GPU将棋ソフト『dlshogi』長時間マッチ観戦記 第二譜『dlshogi』山岡忠夫の信念

 最強CPU将棋ソフト『水匠』と最強GPU将棋ソフト『dlshogi』が対決するイベント“電竜戦長時間マッチ「水匠 vs dlshogi」”が、2021年8月15日に実施された。

 ともにトップクラスの強さを誇る最高峰の将棋AIが激突したこの対局を、開発者は、プロ棋士は、どう見ていたのか。

 ライトノベル「りゅうおうのおしごと!」作者である白鳥士郎氏による観戦記を全4編に渡ってお届け。電竜戦長時間マッチの舞台裏を紐解いていく。

※インタビューは2021年8月24日に行われ、棋士の肩書き・段位等は当時のものになります。

第一譜『水匠』杉村達也の挑戦
第二譜『dlshogi』山岡忠夫の信念
第三譜『GCT』加納邦彦の自信
第四譜『プロ棋士』阿部健治郎の未来予測

取材・文/白鳥士郎

「バグが原因で勝ったと思われるのは、嫌だな」

 第1局に勝利した瞬間、山岡忠夫の心に真っ先に浮かんだのは、そんな思いだった。

 『やねうら王』に存在したバグ。
 山岡はその存在に全く気付いてはいなかった。そもそも山岡は将棋ソフトを開発する際に、盤面や読み筋はおろか、評価値すら見ることがない。だからバグを知らないのも当然といえた。
 では、山岡は何を見て開発しているのか?

「基本的に、見るのは勝率と正解率です」

 正解率とは、長時間の対局で『dlshogi』が指した手と同じ手を、ニューラルネットで予測して時間を使わず指すことができるかどうか、その割合を示す。
 この精度が高ければ高いほど、dlshogiが強くなっているということを意味する。

 だから山岡はdlshogiがどんな将棋を指すのかをほぼ知らない。将棋を指さず、将棋番組も見ないため、そもそも将棋の対局を見る機会もあまりない。
 ただ今回だけは、長時間マッチに備えて数回のテスト対局を行った。

「杉村さんとの初期の打ち合わせでは、タイトル戦みたいに二日制でやるといったような話もあったような気がします(苦笑)。それはさすがに……」

 最初は気軽に引き受けた山岡だったが、名人が解説するなど話が次第に大きくなっていくにつれて、さすがに緊張するようになっていった。途中で止まってしまうような事態は避けたい……。

「定跡を作る際に1手5分ほど考えさせたことはあったので、まあそれくらいまでなら大丈夫だろうと」

 テスト対局はdlshogiがちゃんと最後まで動くかどうかを確認するためのものだったが、思わぬ発見もあった。

「持ち時間が短い場合、dlshogiの初手は、飛車先の歩を突く2六歩です。しかし事前のテスト対局で……dlshogiはなぜか角道を開ける手を指し始めたんですよ!」

 これが何を意味するのか?
 なぜdlshogiは持ち時間が長いと角道を開けるのか?
 先手番で比類ない強さを発揮するdlshogiが選んだからには、きっと何か意味があるのだろうが……山岡には、そこまではわからない。

「テスト対局では、対局数は少ないものの、先手だと水匠に全勝でした」

「だから、悪い戦法ではないんだろうな……とは思っていました。けど、本番までに水匠も何か用意しているはずですからね。楽観はできません」

 そう。山岡は完全勝利を目指していた。水匠に……いや、その元となっているソフト、やねうら王に
 マシントラブルさえなければ、先手は勝てる。だから勝負は後手番。
 この第2局がどうなるかを、山岡は最も注目していた――

将棋ソフト開発における最大の壁「やねうら王」

 山岡が将棋ソフトを作り始めたのは、ディープラーニングの技術が人類に大きな衝撃を与えた、あの事件がきっかけだった。

「もともと『Bonanza』が登場した頃から、開発者である保木さんの論文を読んだりはしていました。実際に作り始めたのは『AlphaGo』が登場してからですね。そのクローンを作ったりしていたんですけど……」

 山岡が最初に作ったのは囲碁のソフトだったということになる。
 では、なぜ将棋に舵を切ったのか?

「そっち(囲碁)は、中国の企業などが取り組んでいたので。個人でやっても勝つことは多分、できない」

「けど将棋はまだ取り組んでいる人が少なく、Googleも『AlphaZero』を発表する前でしたから。それで強くなることを示せたら、意味があることかなと」

 当時はまだ山岡も実験的な取り組みをしている段階で、同じような発想で取り組んでいた人々も、数人ながら存在したという。

「最初に戦わせた相手は『レサ改(Lesserkai)』というソフトです。『将棋所』というGUIに付属しているソフトなんですが、それにも勝てなかったですね。だから、どの辺りに課題があるのかを分析していって……」

「そうやって作っていたら、そこそこ強いものができて。『じゃあ大会に出してみるか』と思って出したら、モチベーションが上がって、どんどん強くしていって……という感じですね」

 山岡が辿った道は、多くの将棋ソフト開発者たちが辿ったのと同じ道のように見える。
 だが、ディープラーニングという技術を使った革新的なソフトである以上、その道は平坦ではなかった。

「Bonanza以来の将棋ソフトとは、強くしていく方法が違うんです。ではAlphaGoと同じかというと……囲碁で用いられているモンテカルロ法(シミュレーションや数値計算を乱数を用いて行う手法の総称)というのは、将棋では使えないというのが定説だったんです」

「しかし私は、ディープラーニングを活用するにはそれしかないと思いました。それでやってみたら……意外にも上手くいったんです! これは学術系の人たちからも反応がありました。モンテカルロ法が将棋でも有効だと示したのは、おそらく自分が初めてだったと思います」

 Googleが将棋も指せるソフトAlphaZeroを発表するより前に、山岡は自らの直感に従って開発を続け、成果を出していた。
 個人でも、超巨大企業よりも先に、答えに辿り着くことができる。この経験は山岡の信念をさらに強固なものにした。
 しかし……CPUを使うNNUE系の将棋ソフトは、強さでは遙か先を行っていた。

「初めて出た大会は2017年の第5回電王トーナメントですね。序盤はそこそこ指せていたんですが……」

 結果は、一次予選落ち。
 終盤、詰ましに行かねばならないところで、dlshogiはその詰みを読もうとしてくれなかった。

「終盤に弱いという課題が見つかりました。中終盤を強くしていかないとダメだと……」

「これがきっかけになって、ディープラーニング『だけ』を使ったソフトにするということに拘らなくなりました。拘りを排除し、詰みの部分は既存の技術に頼ることにしたんです」

 詰みを見逃さなくなったdlshogiは、自己対局で終盤の精度が高い棋譜を量産していくようになる。
 その棋譜を教師データとして学習することで、dlshogiの終盤はどんどん強くなっていった。
 『これが詰みの形だよ』ということを教えてあげたわけだ。

 既存の技術を取り入れたとはいえ、その方法は他の開発者たちよりも遙かに遠回りだ。
 なぜならNNUE系のソフトを開発する場合、優勝ソフトが公開されれば、それをもとに改良するだけでその優勝ソフトと同じ強さで次の大会に出場することができる。
 つまり山岡以外の開発者にとって、開発のスタートラインは、優勝ソフトの強さなのだ。

「仕事をしながら、趣味でやっていることですからね……とはいえ、他の開発者の方々よりも、かなり多くの時間を費やしていると思います。2017年から、ほぼ常にずっと自宅のPCを動かし続けて学習させていますから」

「GPUを自分で買って。どんどん増強していって。金額にすると100万円以上はマシンに費やしていますね。GPUは3枚買いました」

 終盤が強化されたことでdlshogiは飛躍的に強くなった。
 ……が、それは以前のdlshogiと比べてというだけのこと。他の将棋ソフトはもっともっと強くなっていた。

 2018年の世界コンピュータ将棋選手権では、一次予選は7位で通過できたものの、二次予選では1勝8敗の24位。二次予選に進んだソフトの中では最下位だった。
 決勝に残ったソフトは『Apery』を除いて、全てやねうら王のライブラリ勢だった。

 そして翌2019年の選手権では、さらに衝撃的な光景を山岡は目にする。

「決勝に残ったソフトが全部、やねうら王のライブラリだったんです。これは……面白くないな、と」

 優勝したのも本家のやねうら王であり、dlshogiは二次予選で4勝5敗。強くなってはいるが、決勝へは進めないままだった。

 山岡にとって、将棋ソフト開発における最大の壁。
 それがやねうら王だった。

「ライブラリの中で最強のソフトを倒したいというよりも……とにかく、やねうら王です。自分は絶対に、やねうら王の技術をdlshogiの中に加えたくなかった」

 自分の直感に従い、独自の技術を磨くことに拘る山岡にとって、巨人の肩に乗って強くしていくことに何の魅力も感じなかった。

「私も合法手生成のためにライブラリとしてAperyを使っていますが、そこは敢えて……やねうら王は使いたくないと思って(笑)」

「dlshogiは全然違う手法を使っているんです。なのにそこでやねうら王を使ってしまったら、派生品のようになってしまう。それが嫌だった。全く新しい技術だけで勝ちたかったんです。それを示したかった」

「誰も信じていないことを自分だけが信じているということが、私のモチベーションになっているんです」

 孤高を貫く山岡だったが、理解者がいなかったわけではない。
 チームを組む加納邦彦は山岡に影響されて将棋ソフト開発を始め、dlshogiを元に独自の改良を重ねていった。
 そして加納が開発した『GCT』は、昨年11月に行われた第1回電竜戦で、ディープラーニング系のソフトとして史上初めて優勝を果たす。

 ディープラーニング系を飛躍的に強くした加納の手法は後述するが、山岡にとってもGCTの躍進で得たものは大きかった。

「教師の『質』が大事だということ。そこに気づきがありました。それを変えたら一気に強くなった感じですね」

 第1回電竜戦後、改良されたdlshogiは将棋ソフト同士の対局場であるfloodgateでトップに立つ
 レーティングは4745。驚異的な強さだった。

「5月の選手権で以前のモデルを捨て、ブロック数を10から15に上げるという変更をしました。そこでまた1から学習をしています」

「ブロック数を上げることで精度は上がりますが、読む速度は落ちてしまう。ただそこはGPUの性能にもよります。一世代前のV100というGPUだと探索速度は落ちてしまうんですが、A100という最新のGPUであれば15ブロックでも10ブロックと変わらず実行できるので」

「だったら15ブロックのほうが断然強くなります」

 山岡は、自分の信念を貫くことで、やねうら王を超えることを目標としてきた。
 そしてようやくその手応えを得たのだ。
 この長時間マッチで勝利できれば、山岡の中にある確信は、山岡だけのものではなくなる。
 それがこんな、バグによるものであってはならない。

「先手では勝てるだろうと思っていました。だから勝負は後手番の時です。ここで勝って、全勝利したかった」

勝負の後手番。163手に及ぶ対局の結末は

 第2局。先手の水匠は、dlshogiと同じように角道を開けた。
 第1局でバグによるトラブルがあったことから急遽、第3局まで行われることとなったため、持ち時間は当初の90分から60分へと変更されていた(共に1手ごと15秒加算)。

「事前のテストでは、90分15秒加算でやってみてメモリの使用は850ギガほどでした。用意したメモリは2テラのものなので、まあ大丈夫だろうと」

 ディープラーニング系は読んだ局面を全て記憶しておく必要があるため、メモリの使用量が莫大になる。そのため読ませすぎると対局中にマシンがストップしてしまうトラブルが発生しかねない。
 やねうら王はメモリを使いすぎるとバグが起こるが、dlshogiもメモリが唯一の不安材料だった。
 だが時間を短くしたことで、その不安は小さくなった。今度はバグに邪魔されることなく、お互いに全力で戦うことができる

 戦型は角換わり早繰り銀に進んだ。
 角換わりは千日手になりやすい戦型だ。
 先手の水匠は序盤から中盤にかけてところどころ千日手を読むような評価を付けるが、dlshogiは千日手は読まず、わずかながら先手(水匠)が良いと評価していた。

 水匠の杉村は事前に行ったテスト対局で『こちらが千日手を読んでいるのに、dlshogiはぜんぜん千日手を読まずに評価値を上げていって、それで負けることが多かった』と語っていた。
 そして『山岡さんにインタビューするなら、千日手を読まない設定にしていたのかどうかを聞いてきてください(笑)』とも。

「特段、千日手を読まないようにしていたわけではないです」

 山岡はそう答えた。

「千日手を読まないよう設定することもできますが、評価が歪みますので。あんまり極端なことはしないほうがいいです」

 この将棋について、プロ棋士はどう見ていたのか?
 渡辺明名人は「人間同士では、こうはならない将棋。(先手の)金が3八にいるのと、後手だけ1四歩を突いてるところとか……こういう将棋も5年くらい前までは無かったからなぁ」と、感心したように話している。

 佐々木勇気七段が「これからこういう棋譜をいっぱい並べて、こういう感覚を身に付けていかないといけないんですね」と言えば、渡辺は「身に付くのかな?」と首を傾げ「最初からAIから学んだ人は身に付くのかね? これがどっちがいいかわかったら強すぎる……」

 山岡自身は、将棋に対する知識がさほどないこともあり、プロ棋士の発言や視点を興味深く聞いていた。
 自分の作ったプログラムを棋士にどう使って欲しいか。
 人間と機械の関係がどうあるべきか。
 その点について山岡には信念があったが……それは最後に語ってもらうことにしよう。

 渡辺が退席すると、入れ替わるように阿部健治郎七段が再び登場する。
 そしてdlshogiが72手目に指した4九銀という手を絶賛した。「これが20手くらい前に見えていたらすごい」
 佐々木も興奮した口調で「しかもこれ以外は全然ダメと。これ、相当いい手に見えます。水匠はどうやって凌いだんですかね?」

(画像は電竜戦長時間マッチ「水匠 vs dlshogi」第1局 ゲスト:渡辺明名人 解説:阿部健治郎七段・佐々木勇気七段より)

 2人が絶賛したのが、dlshogiの読みの深さだ
 針の穴を通すようなその読み筋は、どのように生まれているのだろう?

「局面にもよりますが、NNUE系に比べて絞って探索はしていますね。ポリシーネットワークというのが、『どこが有望か』というのを予測します。それが絞られていれば狭く深く思考しますし、絞られていなければ広く浅くなります」

 予測した手が上手く絞れない局面というのは、序盤・中盤・終盤だと、どこになるのだろう?

「ええと……そこは調べていないので、わからないです。ただ……」

「ディープラーニング系のソフトの特徴として、合法手が多い局面では読みが浅くなる傾向があります。終盤は持ち駒があったりするため、序盤と比べて合法手が多い。そのため、NNUE系と比べても読みが浅くなる傾向がある」

 そのことが、ディープラーニング系が終盤に弱いと言われることと関係しているのだろうか?

「あると思いますね」

 後手番ながら攻めるdlshogiと、受ける水匠。
 この72手目を境に、dlshogiは自身が若干有利だと主張し始める。

「何か、水匠の玉が裸になったとか解説されていて。それは私にも見ればわかるので(笑)」

 山岡には4九銀という手の善し悪しはさっぱりわからない。それでも棋士たちが絶賛しているのであれば、悪い展開ではないのだろう。
 ただ、dlshogiの勝ちパターンからは外れているのが気になる……。

 誰もが固唾を飲んで見守る中、水匠とdlshogiは千日手の筋を読み始める。
 運営を担当する開発者たちは色めき立った。特に、電竜戦プロジェクトの理事長である『カツ丼』こと松本浩志は焦った。「1局目がバグで2局目が千日手になったら目も当てられない」

 しかしそれは杞憂に終わる。
 119手目。水匠は飛車を横に振ると、千日手を打開した。
 山岡の心臓と先手の評価値が、大きく跳ねた。

「コンピュータ同士の対局なので、自分が動揺しても仕方ないんですけど(苦笑)」

 水匠が千日手を打開した、2九飛
 この手を指された瞬間、山岡は敗北を悟った。今回のイベントを通じて山岡が最も心を動かされた瞬間だった。

(画像は電竜戦長時間マッチ「水匠 vs dlshogi」第1局 ゲスト:渡辺明名人 解説:阿部健治郎七段・佐々木勇気七段より)

「dlshogiがずっと千日手を読んでいるのに、水匠が評価値を上げ始めたところで『これはちょっとマズいな』と思いました」

「千日手をずっと読んでいたのに、それを打開されてしまった。もう一度、一から別の手を読まなくてはならなくなった。さらにそこは、浅く読んでしまう終盤だった……」

 163手目。一手詰みの局面まで指されてから、dlshogiは投了した。

「やはりまだ、終盤に関してはNNUEのほうが強いということなんだと思います」

 しかし敗北を目の当たりにしても、山岡の信念は揺るがない。

「指し手を予測するということと、局面を評価するということ。その精度が上がれば必然的に強くなる。探索のアルゴリズムも統計的な手法で、その精度が上がれば強くなる。そういう技術が使われているので」

「そして精度を上げるという点においては、ディープラーニングのやり方で、学習が進んでいるという実感があるので。だから将来的に伸びるという確信がありました」

「ハードウェアが強くなるに従って、モデルも大きくしていく。そうすれば今後もどんどん強くなっていくと思います」

dlshogiの進化が及ぼすプロ棋界への影響

 藤井聡太はいち早くディープラーニング系の持つ序盤の力に着目し、その棋譜を参考にしていると公言した。その藤井を追いかけて、渡辺明もdlshogiを導入した。渡辺が解説者として登場したのも、dlshogiの真の実力を見極めたかったという面もあるだろう。
 そして今後どんどんdlshogiが強くなっていくのであれば、その棋譜はプロ棋界に極めて大きな影響を与えることになるだろう。

 そのことを、山岡はどう感じているのだろう?

「それについては……実は最近、少しずつ意識するようになっています。前は全然思っていなかったんですけど(笑)」

「それで新しいモデルを公開したというのもあります。今までは古いモデルしか公開していなかったので、弱いまま使い続けられるのも嫌だなと。水匠と同じくらいの強さのものを公開したんです」

「今後、新しいモデルを公開するたびに、それがプロの将棋界に影響を与えてしまうというのは……どうすればいいのか、正解は、自分にはわからないです……」

 参考になるのは、囲碁の世界における中国。
 AlphaGoからディープラーニング系として発展し、開発に大きなGPUリソースを必要とする囲碁ソフトは、企業の力によって強くなっていった。
 そしてトップの強さを持つソフトはトップ棋士しか使うことができないため、棋士の実力の差は広がっていく傾向にある。  今後、将棋ソフトもそうなっていくのだろうか?

「そうですね」

 山岡は頷いた。今は自身も、将棋アプリを開発・運営する企業に勤めている。

 1つ、疑問が残る。
 大企業が成し遂げたことを個人の力でも実現できることを示す。それが山岡の信念だったはずだ。圧倒的な集団の力に対し、個人で戦いを挑み、勝利する。そこに価値を見出すからこそ、山岡は孤独な戦いを続けることができたはず……。

 しかし今回の長時間マッチで、山岡は所属企業であるHEROZのGPUを使用した。
 これまでの信念と反する行動なのではないか?

「それは……『PAL』の存在がありました」

 dlshogiと同じくディープラーニングの技術を使って作られた将棋ソフトであるPALの開発者は、山岡と同じくHEROZに所属する山口祐。
 ディープラーニングが主流となっている囲碁ソフトで結果を出し、また産総研の大型クラウドを使用して開発を行った経験も有する。
 PALはNHK将棋トーナメントで評価用ソフトに採用されたり、永世名人資格者である森内俊之九段のYouTube チャンネルとコラボをするなど、華々しい。

「PALはかなりリソースを使って作られています。私はまだ大会で1位になったことがないので、一度はトップに立ちたいという思いがある」

「私も山口さんも、一緒に競い合って……というような性格じゃないので、お互い秘密にしながら作ってる感じなんですけど(笑)」

「GCTが電竜戦で優勝したことで、個人の力だけでやっていくという部分は満たされたということもありました。やはりディープラーニング系ソフトを強くしていくためには、研究リソースが絶対に必要になっていくので……」

「ただ、企業の力でどんどん強くしていくような競争にはしたくはないです。AIの技術はまだまだ未熟ですから、新しい技術を取り入れることで強くすることはできるはず。そこで競い合いたい」

「私も、やねうら王系の技術には頼らず、新しい技術で強くしましたから。今後ディープラーニング系に参入する人には、『お金じゃないんだ』というところを見せて欲しい」

 山岡の視線は、戦いの舞台がディープラーニング系に移ってからの世界を見詰めている。
 そして山岡は考える。
 かつて自分が目にした、大会の決勝に残ったソフトが全て、やねうら王のライブラリという光景。
 それと全く同じことが、数年後……dlshogiでも起こるかもしれない。
 その時、山岡はどうするのだろう?

「開発を、すぐにやめるということは……ないと思います。せっかく関わることができましたし、これまで多くの時間を費やしてきましたから……」

「ただ、ポーカーや麻雀といった不確定情報ゲームにも興味があります。いろんな技術を勉強したいですし……そうだ、私は趣味でスマホのアプリも作っているんですけど――」

「それは音程を解析するものなんです。絶対音感がない人には、そういうことってできませんよね? けどそのアプリがあれば、絶対音感を備えた人と同じようなことができるようになるわけで」

 海外でもそのアプリは多くダウンロードされており、山岡のもとには英語で様々な要望が寄せられる。
 その経験が、山岡にこんな思いを抱かせた。

「私は『人間とAIの関わり』というところに興味があります。AIが人間の能力を補助するのって、その……『いいな!』って思うんです」

「将棋AIも……dlshogiも、そういう使い方をしてもらえると嬉しいですね」

dlshogiとやねうら王

 ……山岡が意識し続けてきた、やねうら王。
 その存在は山岡以外の開発者たちにとっても、大きすぎる壁として在った。
 電竜戦プロジェクトの理事長であり、カツ丼将棋の開発者である松本は、電王戦が開催されていた頃を振り返って、寂しそうにこう語る。

『やねうら王の存在が大きすぎて、みんないなくなってしまった。あの美しいソースコードを読むだけで自分のプログラミングの腕が上がったように感じる』

 dlshogiが登場するまで、実質的に将棋ソフトの中で1強となっていた、やねうら王。
 その開発者である磯崎は、dlshogiがここまで強くなっていることをどう受け止めているのだろう?

「第5回電王戦当時は……独創性を持っていれば持っているほどキツかった時代だと思いますね」

 山岡が初めて出場した大会のことを、磯崎はこんな言葉で振り返る。

「独自性を出してしまったら、やねうら王に勝てなくなっちゃうので。だから独自性を捨てた上で、やねうら王を深く理解して『ここがアカンやん!』って改良していって……そういう人たちが残っていった感じです」

「まず、やねうら王をそのまま使うことに対して、プライドを捨てないといけない部分もあるでしょうし。さらに独自性かつ、意味のある改造をしなくてはいけない」

「そもそもやねうら王を理解できる時点で賢いんだと思います。私、他人のソースであの規模のものだと、理解するのしんどいかなって思うんです。自分の書いたものだから理解できてますけど(笑)」

 山岡の抱いていた『絶対にやねうら王の技術を自分のソフトに加えたくない』という、信念。
 そのことを伝えると、磯崎は目を閉じて深く息を吐いてから、こう言った。

「……そういう人が残っていくんだと思います。時代に。それくらいの気骨ある……強い意志を持っている人が残っていくんだと思います」

「私自身も、やねうら王ではないソフトが出てくることを祈っているんです」

「技術的に言うと……たとえば、円周率。コンピュータが何桁まで計算できるかという、あのギネス記録をどう検証するかなんですが――」

「あれ、2通りのプログラムを使って検算するんです。1つのやり方だけでは、それが正しいかわからない。だから全く別のアルゴリズムで、すべての桁が一致するかを検証するんですよ」

「それと同じように、全く違う構成原理で作られたプログラムを使って検証しないと、自分のソフトのバグとかを発見しづらいわけです」

「だから、2つあるというのは、すごく大事なことなんです」

「Aperyしかり、dlshogiしかり、やねうら王系ではないソフトが存在するからこそ、やねうら王も強くなれるわけです」

 では、今回の長時間マッチの結果は、やねうら王にとっても歓迎すべきものだった?
 そう問うと、磯崎はノータイムで頷いた。

「もちろんです」



『なぜ、今回のタイミングでバグが出たのか?』

 やねうら王のバグが発見された技術的な原因については、第一譜で述べた。
 しかし山岡と磯崎の話を聞いた後だと、極めて再現性の低いバグがこの一戦で現れたというのは……象徴的なものを感じてしまう。
 やねうら王を拒み続けた山岡の信念。
 やねうら王をデファクト・スタンダードにするべく走り続けた磯崎の信念。
 2つの信念がぶつかり、dlshogiがやねうら王を『検算』することで、バグをあぶり出すことになったのではないか。

 それは、冷たいロジックで構成された将棋ソフトが人類に見せてくれた、ちょっとした奇跡なのかもしれない



 しかし山岡の信念が全て、dlshogiの強さに繋がっているわけではない。
 世界で初めてディープラーニング系のソフトで大会に優勝したのは、山岡ではない。
 その人物がいたからこそdlshogiは誰も予想しなかったほどの速度で強くなった。
 次の第三譜では、その人物の言葉と共に、第3局を振り返ろうと思う

 dlshogiチームの一員であり初代電竜の称号を持つGCTの開発者――加納邦彦である

(第三譜につづく)

第一譜『水匠』杉村達也の挑戦
第二譜『dlshogi』山岡忠夫の信念
第三譜『GCT』加納邦彦の自信
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