話題の記事

日本の芸術力を世界に知らしめた絵師・葛飾北斎──逆境を覆し、病を乗り越え、死ぬまで絵を描き続けた半生を振り返る

 今回紹介するのは、いつかやる社長さんが投稿した『【ゆっくり解説】世界の奇人・変人・偉人紹介【葛飾北斎】』という動画。
 ゴッホやモネなどの西洋絵画の画家にも影響を与えた葛飾北斎の人生について、音声読み上げソフトを使用して解説しています。


ベルサ:
 葛飾北斎は日本の芸術力を世界に知らしめた絵師よ。今日は北斎のお話で日本の芸術の凄さを教えてあげるわ。

ユスタ:
 やったーお姉ちゃん大好きー!

解説してくれるのはベルサユスタ
(投稿者・いつかやる社長さんの動画に登場するオリジナルキャラクター)

ユスタ:
 何があったらこうなるのさ。

ベルサ:
 という訳で今回は世界でも有名な浮世絵師葛飾北斎についてのお話よ。まず彼を一言で言うと、画狂老人卍。世の中にあるもの全てを紙と筆で表現した人物だったわ。

 北斎は1760年、現在の東京都墨田区に生まれる。両親については分かっていない事が多く、父親は鏡を作る職人の中村伊勢という人物で、母親は忠臣蔵で活躍した小林平八郎の孫娘と言われてるわ。

ユスタ:
 親と名字違うんだ。

ベルサ:
 彼の本名は河村時太郎で後に鉄蔵に改名するのだけど、葛飾北斎は言わばペンネームな物で北斎辰正と名乗っていた時の北斎と、住んでいた地域が武蔵国葛飾郡だった所から葛飾北斎と呼ばれていたの。

ユスタ:
 設定ややこし。

ベルサ:
 そんな北斎は子供の頃から絵を描くことが好きで、6歳の幼少期から同じ紙に見たもの全てを重ね描きする癖がある子供だった。

ユスタ:
 当時、紙は高かったからね。

ベルサ:
 また幕府が抱える鏡職人のもとで丁稚として働いたり、10代前半に貸本屋の下で働いたりするのだけど、絵師としての夢をあきらめきれず、どの仕事も長続きしなかったの。

ユスタ:
 絵描きにならなかったの?

ベルサ:
 この時代の絵描きは現在の様に誰もが描けるものではなく、落語の世界の様に弟子入りし、何年も下積みを経て、画号と呼ばれる名前を得て絵師になっていくの。こうした行程を経てようやく現代の出版社である版元から仕事を貰う。仕事が貰えても生活できる人は限られた者のみという厳しい世界だったわ。

 そんな北斎が15歳の時に貸本屋の店主から、版元を紹介され、版元の下で印刷の為に絵を彫る彫り師として働き始めると、その腕を買われ若くして出世していくのだけど、やはり絵が描きたい夢を捨てきれられず、18歳の時に意を決して、彫り師の仕事もやめ、有名な絵師であった勝川春章の下で弟子入りしたわ。

 初めは先輩から雑用ばかり押し付けられていたのだけど、しかし空いた時間にはひたすら師匠である春章の絵を学び続けた事で、北斎の技術はさらに高まっていき、また息をするように絵を描き続ける北斎を春章は評価していた事で、入門してから僅か2年目で春章から画号を与えられたの。師匠から画号を付けられるのは、この世界ではプロとして認められた証だったわ。

ユスタ:
 2年でプロになるのかよ!

ベルサ:
 師匠からつけられた画号は【勝川春朗】。【春章の春】と別名の【旭朗井の朗】と師匠の名前から二文字を貰う。明らかな特別扱いを受けた名前だったわ。

 そしてプロになった北斎は【岩井半四郎 かしく】でデビューを果たすと、【忠臣蔵討入】や【新版両国橋夕涼花火見物之図】等、人物だけでなくどんな絵でも描いた事で瞬く間に有名人となり、若くして北斎は売れっ子としての道を歩み始めていくの。

ユスタ:
 ええ人生やん。

ベルサ:
 しかし、彼の人生は決して順風満帆な人生ではなかったわ。北斎が23歳の時に、日本を巻き込んだ災害が発生するの。それが【天明の大飢饉】だったわ。1783年から起きた飢饉で冷害や浅間山や岩木山の噴火による火山灰で、農作物が壊滅的なダメージを受けてしまうの。その為全国で2万人が餓死し中にはカニバリズムまで起きる程だったわ。

 これに対して幕府は倹約令を発し、ぜいたく品を禁止にしたの。こうした政策を批判する浮世絵や小説を書けば罰せられてしまうため、北斎もこのあおりを受け、仕事が激減、唐辛子売りでなんとか生活する程になったの。

ユスタ:
 せっかくのチャンスが。

ベルサ:
 有名な北斎の生涯は華やかだけでないわ。多くの不幸や苦労の絶えない人生だったの。しかし、どんな災難が来ようと北斎はひたむきに絵を描き続けた。それは後に西洋の有名な芸術家すら虜にしてしまう程、斬新でダイナミックな作品を手掛けていくわ。世の中の全てを紙に落とし込み、死の寸前までを描き続けた北斎のまさに画狂人生が始まるわ。

ベルサ:
 人気絵師から転落した北斎だったのだけど、そんな彼を救い上げた人がいたわ。それが【蔦屋重三郎】という人物よ。

ユスタ:
 有名な人なの?

ベルサ:
 東洲斎写楽や、喜多川歌麿をヒット絵師に導き、【南総里見八犬伝】の作者、曲亭馬琴や【東海道中膝栗毛】の作者十返舎一九等、この時代にメガヒットした作者を輩出させた版元よ。

ユスタ:
 弥次喜多の作者もかよ!

ベルサ:
 北斎も重三郎のプロデュースで様々な役者絵を描いたり、また【知恵次第箱根詰】というという作品の挿絵を描いたりと、再び北斎の名前は世間に知れ渡っていく事になるの。

 また彼は様々な技法を学ぶために、勝川一門の出でありながら、当時タブーとされていた他派の門下になり技法を学んだり、西洋の技法を自分の作品に取り込む等、進化を続けていたのだけど。

ユスタ:
 そんな事していいの?

ベルサ:
 当然勝川一門の先輩であった春好がこれに大激怒。名汚しだと大衆の面前で北斎の絵を破り捨て勝川家から出て行けとまくし立てた。この屈辱的な事実上の破門宣告だったのだけど、後に北斎はこの屈辱があったからこそ自分は努力を続けられたと残しているわ。

ユスタ:
 本当になんでも絵を描く事につなげちゃうんだね。

ベルサ:
 こうしてフリーとなったなった北斎は勝川派で学んだ技術と他派で学んだ技術を活かし、あらゆる流派の特徴を入れた【亀図】を自費出版で無償配布し知名度を上げると、前代未聞のパフォーマンスを行ったわ。

ユスタ:
 パフォーマンス?

ベルサ:
 およそ1200畳分の紙の上で人と同じ位の筆を使い、数字間をかけてある絵を描いた。それこそが北斎の名を通じ、当時不動のものにしとう超大作。【大達磨絵】だったわ。あまりにも巨大な紙に描かれたため、見物人は絵が完成し、お寺の櫓に飾るまで何を描いていたか分からなかったと言われているわ。

ユスタ:
 この人にしか見えない描き方だね。

ベルサ:
 こうして人気となった北斎は多くの作品を後世に残したわ。人気作家である曲亭馬琴と共に、【新編水滸伝】の挿絵を手掛けたり、多くの流派の技法を取り込んだ【酔余美人図】【潮干狩図】といった肉筆画。10年間の間で190以上の作品を手掛ける事になっていくの。

ユスタ:
 難しい絵描きの世界を生き抜いたんだね。

ベルサ:
 そう、だけどここまでなら有名な絵師なだけよ。北斎の本当の伝説はここから始まるわ。北斎の名前が有名になると、彼の下に多くの弟子志願者が訪れるの。その弟子の為に時間が忙殺され、自分の絵に中々着手できずにいたの。そこで北斎は絵の手本となる画集を作り、それを弟子の教本にしようと考えた。

 それこそが一大ベストセラーとなり、現代でも同じ言葉が使われ続ける“漫”然と描いた“画”集。北斎漫才よ。

ユスタ:
 漫画!?

ベルサ:
 そう、これは北斎が文字通り人生の中で見た風景や人の動き、植物、動物、中には模様まで、あらゆるジャンルにとらわれる事ない絵を高い画力で描かれた物よ。漫画の歴史は平安の鳥獣戯画等があるのだけど、北斎漫画では現代漫画でも使われる漫画内の擬音や表現が作られ、漫画という言葉そのものもここから生まれているわ。

ユスタ:
 思い切り今の現代漫画の先駆けじゃん!

ベルサ:
 こうして北斎の名は全国に広がっていく事になるのだけど。しかし彼の人生は決して順風満帆に進んだだけでなかったわ。それは北斎が67歳の時に突如身体が満足に動かなくなりそのまま病に倒れてしまったの。

ユスタ:
 何があったの!?

ベルサ:
 北斎が患った病気は脳卒中よ。当時は治療法もない死の病だったわ。彼は1年近くも寝たきりの生活を送っていたのだけど、そんな中でも満足に動かない手でひたすら絵を描き続け、自作した漢方を飲み続けたことで、後遺症もなく絵師に復帰しているわ。

ユスタ:
 民間療法かよ。

ベルサ:
 こうしたこ不幸が起こった事で北斎は、いつまた体が動かなくなるか分からない、だから動ける内になんでも描くと言い、69歳にして絵の修行の旅に出る事を決意したわ。

ユスタ:
 まだ修行するの?

ベルサ:
 そう、そしてこの旅で北斎はまに彼の代表作を描き上げたわ。それは景色だけでなく、人も道も中には風や橋、波に至るまで。北斎が旅で感じた全てが込められており、日本人なら必ず目にした事のある錦絵。富嶽三十六景よ。

ユスタ:
 ああ、見たことある。

ベルサ:
 日本で最も有名な富士山を様々な構図から捉え描かれた画集で、後にこの絵が海外に渡り、ジャポニズムという新カテゴリが広まり、ゴッコやモネ等の芸術家が大きな影響を受けた作品集だったわ。

ユスタ:
 世界レベルになってるじゃん!

ベルサ:
 その後も歳をとっても画力の向上を考え続け、80歳を超えても猫がうまく描けないと娘の前で泣いたり、西洋の技術を学びすぐに自分の絵に取り入れたりと、絵を描く事を死ぬまで続けた。

 そして、龍が富士山を超える【富士越龍図】を描き終えると北斎は10年、いや5年でも良いから、生かしてくれれば、本物の絵師になってあったのにと残し、89歳で生涯の幕と同時に筆を置いたわ。

 そんな北斎の辞世の句は、「ひと魂でゆく気散じや夏の原」死んだ後は魂になって夏の草原でのびのびしたいと残しているのだけど、彼ならそこでもきっと絵を描こうとするのかもしれないわね。これが葛飾北斎よ。

ユスタ:
 最期まで絵を描き続けた人だったんだね。

ベルサ:
 歳を理由に諦める人が多いのだけど、西洋の技術を歳をとって勉強を始めた北斎を見ると、何かを始めるのに遅すぎるということはないのよ。

 

 「いつかやる社長」の動画チャンネルでは今回紹介された葛飾北斎以外にも、歴史に名を残した偉大な人物の生涯を分かりやすく解説しています。
 ノーカットで解説をご覧になりたい方はぜひ動画をご視聴ください。


▼動画はこちらから視聴できます▼

【ゆっくり解説】世界の奇人・変人・偉人紹介【葛飾北斎】

―あわせて読みたい―

個人として唯一戦史に刻まれた男“不死身の分隊長”舩坂弘

シムシティのように大阪をイチから作りあげた阪急電鉄の創業者・小林一三のすごすぎる功績

“新1万円札の人”渋沢栄一が敏腕すぎる件 500社以上を設立した男が関東大震災で起こした奇跡

「社会」の最新記事

新着ニュース一覧

アクセスランキング