特撮作品が多くの人を魅了し続ける「特撮の魔法」とは? 能や人形浄瑠璃で育まれた“想像力で補う文化”に迫る
円谷プロダクション・TBSによって制作された『ウルトラセブン』は、1967年に放送されて以来、長年にわたりファンから愛されている特撮テレビドラマです。
ニコニコ生放送「山田玲司のヤングサンデー」にて、漫画家・山田玲司氏は、『ウルトラセブン』がどのような文化的背景と流れによって形作られたのか解説。さらに、特撮作品が多くの人々を魅了し続けているのかについても言及しました。
※本記事はニコニコ生放送での出演者の発言を書き起こしたものであり、公開にあたり最低限の編集をしています。
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第198回『アフター・ウルトラセブン〜特撮の力の秘密と今と重なり合う「暗黒時代の特撮」とは何か!?』
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■人形浄瑠璃や能から続く「想像力で補う文化」
山田:
「特撮の魔法」についての話をしたいと思います。いろいろ考えてみると、日本には人形浄瑠璃【※】がかなり昔からありました。
これには作り物に魂を込めていくということが色濃く出ています。同じく古くから伝わる能にも、仮面の文化というものがありますよね。
※日本を代表する伝統芸能のひとつで、太夫・三味線・人形が一体となった総合芸術。
そして、人形浄瑠璃の場合は、後ろで人形を動かしている人がいても、見ている側はその人物が存在しないものとして見ています。
また、能では舞台上で演奏している人を、物語上には登場していないものとして見ていますよね。
加えて、大きな化け物を作りたがるという伝統があります。こちらは神楽の画像なのですが、ヤマタノオロチのような大きい怪物を大きいままで表現しています。
奥野:
これは大体、西国(中国、四国、九州地方)の文化ですよね。
山田:
青森県のねぶた祭りもそうなので、東北地方にもあります。これはインドネシアのほうから来ている流れで、バリ島ですごい盛んなんですよ。例えばこの(オゴオゴの画像)お祭りの出し物は、もう怪獣でしかないじゃないですか(笑)。
これが日本で行われる祭りのルーツとなっている一例で、獅子舞などもそうですよね。このような、中に人が入ってるけど「いま、この瞬間は本物である」という想像力で2重に世界を補っていくというのが、日本の文化の根底にあるんです。
後は仮面がポイントで、仮面は表情が変わらないからこそ、見てる側が表情を読んでしまい、神々しいものに見えるんです。
『ウルトラマン』と『ウルトラセブン』って、能の文化の何かだと思うんですよ。表情がないということに、得たいの知れないスピリチュアルな何かを感じます。
■想像力で補うこと、本物のように見えるものが大好物
山田:
そこに関連した話としては、『ウルトラセブン』の実相寺昭雄監督が『セブン』直後に独立して映画監督になって、『無常』というポルノチックな作品を撮っているんですね。
この作品は、主人公が実の姉と関係を持つという内容で、その際になぜか能面をつけて情事に及ぶんです。
表(セブン)でやっていた表現よりも、もっと深い表現を『無常』でやっていて……つまり「エロセブン」なんです。
久世:
『セブン』では絶対にできない表現ですもんね。
山田:
また、日本には虚無僧という存在がいるのですが、そのような存在を心のどこかでヒーローだと思っているところがあります。
顔を見せないことによって、その人が神格化される文化があると僕は思っています。一方、人形浄瑠璃の場合は、後ろの黒子さんが消せてませんよね。
久世:
そうなんですよね。そこがいいんだよなあ……。
山田:
文楽もそうですよね。人形以外におじいちゃんとかが普通にいます。
でも観客は、そこにいるおじいちゃんを見ずに、人形を見て想像で補っていく。作り手との共作というのが日本の文化の中にあります。
ここに安心感と自由がある。そして同時に、職人の国なので日本人は「まるで本物みたい!」という感覚が好きなんです。だから、想像力で補うことに加えて、本物のように見えるものが大好物なんですよ。
円谷のおやっさん(円谷英二氏)が日本の中心にいくのは、まさにその通りなんです。非常にリアルなんだけど作り物なんですよね。
みんなが「ゴジラの中には人が入ってるよね」と思いながら見ているけれど、「まるで本当にそこにいるようだ」という感覚を楽しむんです。
見ている側と作り手側が同じ箱庭で遊び学ぶ文化が、日本にはそもそもあるのではないかなと感じます。
■客神やシャーマニズムを宇宙人として表現した『ウルトラセブン』
久世:
幻想をみんなで共有して、現実の部分を言わないというのは、能も文楽もそうですよね。さらに言うと能の前に田楽があって、畑とかで踊ってたじゃないですか。
その前というか、それと同時に仮面すらなく、ご神体もとくにないから、雰囲気で神様がそこにいらっしゃるという共同幻想をみんなで持つという……。
「なくてもある」だし「こういうことがあったら、こういう神様がいらっしゃったんだよ」というのをみんなで、さもいるように受け入れる文化はずっとあったんでしょうね。
奥野:
それって俺は、その人たちは本当にそうだと感じていたと思うんですよね。いまの我々は「それは仮面だけど、そういう風に見ようか」と思って見てるじゃないですか。
そうじゃなくて、江戸時代の文楽になっていく浄瑠璃の流れもそうだし、能もそうなんだけど「本当にそこに神様が宿った」と見てたと思うんですよ。
日本の神様の概念は訪れる神々、客神だから神社の中には基本的に何もない。鏡だけあるか、何もないか、そこに風とかいろいろなものが訪れるという。
だから、その何らかは宿るものであって、そこにずっといるわけではないんです。なんとかの化身や権現というように、全部顕れてくる、降りてくるものなんですよね。
山田:
それが宇宙人になってるのが『ウルトラ』シリーズなんだよね。
奥野:
たぶんそれは子どものほうがすんなり「そうなんだ!」と思えるんだろうね。精神的未熟さとか、そういうのではなくて、近代に入るまで、我々が思っている何十倍もスピリチュアルだから。
だから文楽や歌舞伎もそうで、メイクや仮面を付けた時点で、当時の子どもたちは「いつもの〇〇じゃない」となって畏怖していたんだろうなと思うんですよ。
一方『ウルトラセブン』はアフレコで作られてて、だからそこのズレが非常に気になるんです。そして浄瑠璃や人形劇も全部アフレコ前提じゃないですか。
山田:
口が動かないからね。
奥野:
でも、そこでキャラクターがしゃべっているということを非常にすんなりと受け入れられるのは、さっき玲司さんも言っていた文楽や浄瑠璃の流れと歌舞伎や能の日本的な部分がアクセスしやすかったからですよね。
特撮作品では、明らかにミニチュア、明らかにおもちゃが爆発しているけれど、そういった流れがあるから「わー!」と思えるんですよ。
アメリカン・コミックスのスーパーヒーローと比べてみたときに、バットマンやアイアンマンは、その本人がスーツを着てヒーローになってるじゃないですか。でもウルトラマンは、どこかから、なぜかやってくる。
山田:
シャーマンなんですよ。だから、作中で「体を貸しているんだ」とはっきり言ってますよね。
奥野:
この感覚がどれくらい欧米の人たちに伝わるのか……。
山田:
でも欧米では、ピカソの時代にアフリカを見直すというのがあったでしょ。もともと、アフリカと地続きのシャーマニズムというのがあって、シャーマンに何かが降りてくるという原型は世界中にあるんですよね。
それが近代になって馬鹿にされてきたんだけど、ピカソの時代、1910年代、1920年代あたりにもう1度、見直していった流れの延長線上に『ウルトラマン』があるように思いますよ。
うらまっく:
現代だとゆるキャラとかの中にはおっさんが入っているのに、そこにいるとテンション上がるんだよね……。それにウルトラマンショーとかも、いい年した大人でも「わっ!」となるんだよ。
山田:
やっぱり「魔法」がかかるんだよね。
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