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本当は子供に見せられない『天空の城ラピュタ』物語後半で巨乳化するシータの謎と宮崎駿流エロスの表現に迫る

後半になって急に大きくなったシータの胸の意味

岡田:
 さっきコメントでも指摘していた人がいたんですけど、一番最初にパズーと出会った頃と比べると、物語後半のシータは、もう言い訳のしようがないくらい胸が大きくなっているということがありますよね。

 『天空の城ラピュタ』というのは、わずか2、3日の出来事のはずだから、この彼女の胸の急成長は「女の子の成長は早いよね」では片付けられないんですよ。

 では、なぜ、こんなにもおっぱいが大きくなったのかというと、もう、こういうふうに描かないと気が済まなかったからなんです。

 この時点でのシータは、女であるということを利用し始めている。だから、その象徴として胸が急速に大きくなっているんですね。

 これは、単なるエロの話というだけではないんです。「宮崎駿というのは、エロだけじゃなく、女性のすごさというのもちゃんと描く作家だ」ということを言いたいんです。

女であることを利用して男を使うシータ

岡田:
 みなさんは、タイガーモス号の中で、シータが厨房で働かされることになるシーンを覚えていますか? シータを一目見てかわいいと思ったドーラの息子達が、働いている彼女の元へ「何か手伝うことない?」と次々と言いに来て、その結果、全員が彼女にこき使われるというシーンがありましたよね。

 ここで重要なのは、この時、シータは何を思っているのかということなんです。しかし、宮崎駿は、ここでのシータの表情を見せていないんですよね。

『天空の城ラピュタ』より、該当のシーン

 これがもし、今時の普通のアニメだったら、どんなふうに描いているかを考えてみてください。

 絶対に、ちゃんと女の子の表情を描いた上で、「みんなが手伝ってくれるっていうから、お願いしちゃった、テヘッ☆」みたいな表情を見せるか、もしくは「この子は、本当はそんなこと全く考えてない天然キャラなんです」みたいな台詞のやり取りをさせるはずなんですよ。それが、普通のアニメの作り方なんです。

 だけど、宮崎駿は、テヘペロも天然なんですというのも、どちらもやらない。ここで、シータの後姿を見せることしかしないんです。これによって、「このシータという女の子は、船の中で自分がモテているのがわかっている。だからこそ、他の男に次々と仕事を頼んでいるんだ」ということが暗に示されるんですよ。

 でも、だからといってパズーを呼んだりはしない。なぜかというと、自分が惚れた男だから。つまり、ここでシータは「自分が惚れている男はこき使わずに、自分のことを勝手に好きになったどうでもいい男はこき使う」ということをやってるんですね(笑)。

ルパンの前では“かよわい少女”を演じるクラリス

岡田:
 その辺の宮崎さんの本音というのは、『ルパン三世 カリオストロの城』にも表れています。

 クラリスがカリオストロ伯爵と対決する時に、伯爵はクラリスの顎をガッと掴んで、「さすが、血は争えんな。もう男を操ることを覚えたか」というふうに言うんです。

 それを聞いた僕らは、ついつい「いや、それはカリオストロ伯爵の読み過ぎだろ! クラリスはそんな子じゃないよ!」というふうに思っちゃうんですけども。

『ルパン三世 カリオストロの城』より、ヒロインのクラリス
(画像は「ルパン三世」公式サイトより)

 でも、その言葉を全く否定しないクラリスを含めて、「もしかして、今までにもこういうことがあったんじゃないか?」というふうに、ついつい考えちゃうんですね。

 というのも、劇中の冒頭で自動車を盗んでガーッと走って来るあのたくましさと、中盤以降のルパンの前で泣いてるだけのクラリスっていうのの辻褄が合わないんですよ。

 つまり、クラリスはルパンが来たから弱い女の子になった。裏を返せば、ルパンが来る前は強い女の子だったはずなんですね。

 他にも、ルパンが去る時に、「泥棒をやめて私と一緒に暮らしましょう」ではなく、「私もあなたと一緒に行って泥棒をします」と言いますよね。その意味では、クラリスというのは、わりと“したたかな女”という部分もあるはずなんですよ。

好きなものをあえて描かない宮崎駿

岡田:
 もちろん、このタイガーモス号の厨房のシーンについて、「シータは男どもを利用していた」と断言はしていないんですけども、宮崎駿は、この後ろ姿だけを見せて表情を読ませないことを通じて、明らかに「女ってすごいよね」ということを表現しています

 『ラピュタ』について、ドーラのしたたかさはよく語られるんですけども。じゃあ、そのドーラから「あの子は将来、私みたいになるよ」と言われたシータとは、本当はどんな女の子なのか?

 劇中におけるシータというのは、あくまでも観客の男の子たちがドキドキして、胸を焦がして憧れるような存在だから、宮崎駿も、はっきりとわかるように「男を利用しています」とは描かないんです。

 でも、そうしている時の後ろ姿だけはちゃんと描くという意地悪さは持ってるんですね(笑)。

 これが、宮崎駿の作劇法なんですよ。

 エロス自体は描きたい。パンチラも描きたければ、女の子のおっぱいや太ももも描きたい。しかし、だからといって、エッチなシーンとして描きたくない。なぜなら、昨今のアニメーターがやっているような、「こういうの、好きでしょ? 僕も好きなんですよ!」というやり方が、一番下品だからです。

 宮崎駿というのは“自分が好きなもの”は、あえて描かないんですよ。

 「『風立ちぬ』を見ろ! 俺はあんなにゼロ戦が好きなのに、ゼロ戦の戦闘シーンが1カットも描いてない! なぜなら、そこでゼロ戦を描いてしまうと、手塚治虫になってしまうではないかっ!」っていうのが宮崎駿の考え方なんですね(笑)。

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