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座間の死体遺棄事件から”自殺する権利”について考える

 11月5日に放送された『岡田斗司夫ゼミ』にて、座間市のアパートで起きた男女9人の死体遺棄事件に関するお便りが番組に届きました。

 「もしあの事件の犯人が善意で自殺代行を引き受けていたのだとしたら、僕たちは彼を責めることが出来るのか?」という質問に対して、岡田斗司夫氏はニコ生アンケートを交えつつ回答しました。

岡田斗司夫氏。

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“自殺する権利”は存在するのか

視聴者からのメール:
 テレビの報道では基本的に「怖い事件ですね」というスタンスなのですが、ツイッターや匿名SNSなどでは、「死ぬことが出来てよかったじゃないか」「これは本当に殺人なのか?」との声も出ています。僕も1週間くらい後者と同意見でした。

 事件から時間が経つにつれ、容疑者が自殺志願者を集めていたのは殺人をするためだと、事情が明らかになっていきました。ですが、もし仮にこの犯人が慈善事業として犯行を行っていたのだとしたら、殺人の罪まで背負ってくれる大変ありがたい存在であるような気がするのです。生きる気のある人たちは当然「自殺などいかん」と言うのでしょうが、人には自殺する権利があるとは思いませんか?

岡田:
 つまり、今回の犯人は違うだろうけども、もし善意のつもりで自殺代行をする人がいたら、われわれは彼を糾弾できるんだろうか。そもそも人間は自殺する権利があるんじゃないだろうかというお便りだよね。こんなふうに「人間には〇〇する権利があると思いませんか?」なんて言われたら、大抵のことに関しては「権利と言われりゃ、あるよな」という気もするんだ。

 だけど、俺もこの問題を昔から考えていて、自殺する権利というのはあるのかなと思うんだ。だからといって、自殺する権利などないと言う時の根拠としてよく使われるだれかが悲しむからという理由を挙げても、たぶん成立しないんだよな。俺には悲しむ人なんてだれひとりいないと言う人は必ず存在するからね。

自分の命なら平気で殺せる人間でも…

岡田:
 ここで思考実験をやってみようか。「あなたが無人島に住んでいた場合、その島にたまたま生き残っていた犬とか猫を、楽しみのために殺せますか?」。殺してもいいと思うか、ではないよ。自分自身の楽しみやひまつぶしのために無人島で自分と一緒に生き残っている犬とか猫というのをあなたは殺せるかどうか、ということだね。はい、いいえの2択でいいのでこのアンケートに答えてみてください。

ニコ生アンケートの結果。

岡田:
 「はい」が約4%、「いいえ」が96%。そうだよね、たぶん多くの人にとってはそんなこと楽しくないんだよ。無人島なんだから自分以外に人間はいない。ということは、もし自分がそんなことをしたとしても悲しんだり怒ったりする人は存在しないし、だれの迷惑にもならないはずなのにね。

 自殺についても自分を殺すだけだし、俺が死んでも悲しむ人はいないから迷惑にならないだろということで、自分の命だったら平気で殺せると言う人が多いんだけど、だからといって、犬とか猫の命を奪うことには抵抗があるのが当たり前なんだよな。魚を食うために殺せても、犬や猫を楽しみのために殺せないというのが人間の不思議なところというかね。

“人間になる”ということは難しい

岡田:
 たぶん人間というのは、生まれてそのまま育てばなれるというものじゃないんだよ。人間とは努力してなるものであって、ただ楽して生きるために落ちていくのは、変な言葉だけど“外道”なんだ。そういう意味では、自殺というのは基本的には外道の道なんだ。

 無人島にいる犬や猫を殺してもだれの迷惑にもならない。でも無人島で自分の楽しみのために犬や猫を殺した人の話を聞いたらあいつは酷いやつだと思っちゃうでしょ? このときの感情は論理的に矛盾している。しかし明らかに論理的ではない感情というのがたぶん人間的なものであって、外道と自分たちとを分ける境界線なんだよね。

岡田:
 中には、生活が苦しくて外道な仕事をしている人達もいるわけだ。具体的なことは言わないけど、そういう仕事をしている人もいるよね。そういう外道な仕事をしている親に養われる子供がいるのもまた事実なんだ。外道の存在自体や、自分たちが外道に落ちることを完全に否定することはできない。けれども肯定してもいけないというところに面白さがあるんだ。

社会問題を個人問題にすり替えないようにしよう

岡田:
 このお便りに答えるならば、今回の事件を考えるうえで重要なのは、自殺するのがいいか悪いかではなくて、自殺を肯定するのがいいか悪いかという問題だということなんだ。

 つまりこれは個人の問題ではなく、社会問題なんだよな。そして、こういった社会問題に対して、俺は構わないなんて言っても意味がないんだよ。例えば、目が見えない人を“めくら”という差別言葉で罵っちゃいけないという社会通念に対して、目が見えない人のひとりが俺は“めくら”と言われても平気だ。だからみんなもっと目が見えない人に“めくら”と言ってやってくれと言ったとしても、これは成立しない。

岡田:
 それと同じで、社会問題を個人問題にすり替えたらいけないんだよ。その瞬間に、理屈は繋がってるけど気持ちは全く繋がらなくなってしまう。構造がズレちゃうわけだ。つまりこの事件について、自殺を肯定するような発言は社会的ではないから、テレビで否定されるのは当たり前。それは世の中が正しく機能している証拠なんだ。

 なので、「自殺する権利があるとは思いませんか?」と言われたら、「それはその通りだろうけども、それを表で大きい声で言うのは、大人げないよ」と思います。

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