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「痙攣している頭に30回もハンマーを」…娘を殺された母が死刑廃止派弁護士に、あえてむごい娘の死を語った理由【闇サイト殺人事件】

殺された娘はもう帰ってこない。加害者は死をもって責任をとるしかない

ジョー横溝:
 問題は凶悪犯罪を犯した人間が命を持って償うかどうかというところですが、死刑存置派の弁護士の方にお聞きしたいのですが、裁判を通して弁護をしている間に、被告人は生きて償わせた方がいいのではないのかと思ったことはありますか。

酒井:
 生きて償うことなんてできないと思っていますので、考えたこともないです。

上谷:
 「生きて償う」と言いますけど、何をしてくれるんですかという感じですね。

 磯谷さんのケースでも三人とも死刑になりません。その人たちが生きて償うって言っても、ただ刑務所に入って、ただ生きているだけですよね。それが遺族にとって何の償いになるのかなと思います。

死刑制度存置派の上谷さくらさん(右から二人目)。


山田:
 人を理不尽にむごたらしく殺しておいて、いざ自分が死刑になりそうになった途端に「生きて償いたい」って言うんです。これは命乞いですよ。

 磯谷さんのケースですと、娘さんは命乞いをした上でハンマーで殺されました。自分の番になると法廷で命乞いですよ。どういうことなんですか。二度も被害者を冒涜していると思います。

髙橋:
 娘や息子は殺されて生きて帰ってこないのです。償いようがありません。ですから「死んで責任をとってくれ」と遺族は言っているんです。

 100円を盗んだら、100円に金利をつけて弁償すれば、それは償いになります。ですが、人を殺して死んでしまっているので、償えないのです。だから「死んで責任をとってください」と遺族はみんな言っています。

森:
 責任って何ですか。

髙橋:
 人を殺した以上はあなたも命をもって責任をとりなさいということです。

森:
 確かに償いはできません。人を殺してしまったら埋め合わせはできないです。何をやっても無理です。つまり生きて償うのも無理です。その通りです。しかし死んで償うのも無理です。生きようが死のうが償いなんてできないのです。

髙橋:
 ですから死をもって責任をとってもらうのが被害者の気持ちだと申し上げています。

 どこの刑法の本にも書いてありますが、刑法の本質は応報刑論です。何かと言えば、悪いことに対しては悪い報いで行うという、「目には目を歯には歯を」です。これがまさに応報です。

髙橋:
 目的は何かと言えば、犯罪抑止です。

森:
 応報刑論と目的刑論というものは一緒なのですか。違うと思うのですが。

髙橋:
 応報感情を裁判に持ち込むのは刑法の本質で、目的が犯罪抑止です。私たちはそう習ってきました。

ジョー横溝:
 岩井さんはいかがですか。

岩井:
 磯谷さんからお話をいただいて、私も当然重く受け止めています。「あなたの家族が殺されても死刑廃止と言い続けることができるのですか」という質問ですが、どちらの答えも私には言えません。

 その上で生きて償うか、死んで償うかという議論ですが、責任をとるためにまず全体の事実を丁寧に認定していく必要があると思います。その人が犯した事実を突きつけない限り、償う、責任をとる流れができないと思います。

死刑制度反対派の岩井信さん。

岩井:
 本当に彼がしたことは何だったのか。事実をどう認定するか。償うべき対象の事実は何だったのかを認定することが大事だと思っています。

ジョー横溝:
 ここまでの議論を聞かれて、山口さんは非専門家としてユーザー目線でどのように思われましたか。

死刑制度について考える山口洋さん。

山口:
 磯谷さんのお話の最後の問いかけについて、ずっと考えています。また、自分が被害者遺族の立場だったとして、加害者の死刑執行がなされたらどう思うか。わからないが、さらなる苦しみが生まれるようにも思いました。何より、二度と被害を繰り返さないためにどうすべきかを、考えていきたいと思います。

青木:
 被害者遺族には、絶対に死刑を望むケースもあるし、加害者の死刑を望まずに嘆願書を書いたケースもありました。中には、絶対に死刑を求めつつも、加害者の命を望む自分が、命の尊さを訴えるボランティア活動を続ける資格がないのではと、気持ちの揺れを吐露する人もいらっしゃいました。

 当事者から離れるほど、発言は過激になりますが、遺族の思いは多様で複雑なものです。

磯谷:
 つらい事件のことは早く忘れたいし、犯人のことを考えたくはありません。しかし、犯人が生きていると、考えてしまう。でも、神田が執行された時から、神田のことは一切考えなくなりました。だから、遺族が次の一歩を踏み出すために、死刑という制度は必要だと思います。

刑罰につきまとう冤罪という問題

ジョー横溝:
 続いての議論ですが、「冤罪」というキーワードを死刑と絡めてお話ができたらと思っております。死刑反対という議論はかなり少数なのですが、その中でも一番多いのは「冤罪のまま死刑が執行されたら取り返しがつかないのではないか」という意見です。

 岩井弁護士から冤罪について解説をしていただきたいと思います。

岩井:
 日本では死刑が確定した後に再審請求があって、その結果死刑囚が無罪となったという事件が1980年代に4件あります。

 まずは免田栄さんの免田事件です。

岩井:
 1952年に死刑判決が確定しましたが、再審が開始され1983年に死刑事件として初めて再審無罪となった事件です。

 それ以外には1984年に財田川事件で谷口繁義さん、松山事件で斎藤幸夫さん、1989年に島田事件で赤堀政夫さんの4名の方が死刑が確定した後に、再審で無罪になっています。

 最近では袴田事件ということで袴田巌さんが再審決定が3年前に出ています。

岩井:
 この事件は東京高裁で審議が続いています。再審開始決定のとき、同時に釈放されて死刑囚としての拘置の状態が解かれました。袴田さんの事件の中では600点ほど証拠開示を警察が命じられ、今まで隠されていたものが出てきたと言われています。

 冤罪で重要なのは「まったく犯人が違う」という冤罪の問題と、もう一つは部分冤罪の問題があります。現在の日本では死刑判決は被害者の数だけではなく、犯行の計画性、執拗性、手段、目的、事情、被告人の情状等を含めて決めます。

 本来であれば、このまま刑が執行されていたかもしれない人たちがいるという事実を、受け止めるべきだと思います。 

ジョー横溝:
 「それは死刑制度廃止と切り離して考えてほしい」という意見も多いです。先日も地上波の放送で飯塚事件に関しての報道がありました。冤罪を主張していました死刑囚の久間三千年さんはすでに死刑が執行されているという事例もあります。

 これに関しては死刑存置派のみなさんは、どう考えていらっしゃいますか。

髙橋:
 冤罪が起きるのは警察組織の思考停止組織だと思っています。警察は署長が捜査方針を決めてしまうと、違う証拠が出てくるとその証拠を潰そうとするのです。

 冤罪を生む温床だなとつくづく思います。検察もそうです。遺族や被害者自身の調書をとるときに立ち会ったことがあるのですが、私はびっくりしました。

 被害者は少ししゃべっただけで、その後は検察官が作文して事務官にパソコンで打たせているだけなのです。加害者の立場でやられたらたまったもんじゃないなと、つくづく思いました。

 しかしよく考えると、これは刑事司法の手続きの話なのです。大事なのは冤罪は絶対にあってはいけません。被害者にとっては二次被害、三次被害です。絶対に防止しないといけません。しかしあくまでもそれは手続きの話なのです。

髙橋:
 手続きがこうだから、実態もこうじゃないといけないという話を始めたら、収拾がつかないと思います。例えば自動車でもそうです。

 事故で毎年6000人が亡くなっています。自動車で人が亡くなったら、取り返しがつきません。冤罪で人が亡くなったら取り返しがつきません。同じなのです。

 だからと言って自動車社会はなくなりません。どんな制度にも弊害はあります。制度の持つ弊害をできるだけ小さくしようというのが本来のあるべき姿であって、制度をなくすというものにはリンクしないと思います。
 
上谷:
 同じく死刑制度と冤罪は別の問題だと思います。冤罪は絶対にあってはいけないし、被害者は救われません。

 もっと厳密な捜査をしてもらって冤罪をなくすという努力をすることと、死刑制度を続けるかという話は別の話だと思います。

 現行犯など絶対に冤罪ではない事件もありますよね。そういった冤罪の可能性が一部にあるということで制度全体をやめるというのは、論理の飛躍かなと思います。

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