「初代『信長の野望』はたったふたりで開発」「三度も作り直した『仁王』」──ゲームクリエイター“シブサワ・コウ”40年の歩みを振り返る
『信長の野望』や『三國志』シリーズといったゲーム作品の生みの親であるシブサワ・コウ氏の活動40周年を記念した番組【伊集院光さん出演】シブサワ・コウ40周年記念番組 春の陣が、2021年3月28日にニコニコ生放送にて放送されました。
本番組では、1981年10月26に発売された『川中島の合戦』から、2020年3月12日に発売された『仁王2』にいたるまで、シブサワ・コウ氏が自身の歩みやコーエーテクモゲームスの変遷を振り返り。
さらに、シブサワ氏の作品を初期から知る伊集院光さんがゲストとして出演。これまでに発売されてきたシブサワ・コウ氏の作品について、当時の印象を語りました。
※本記事はニコニコ生放送での出演者の発言を書き起こしたものであり、公開にあたり最低限の編集をしています。
シブサワ・コウと伊集院光の接点とは
天明:
伊集院さんとシブサワさんの接点というのは、どういったものなのでしょうか?
伊集院:
シブサワさんが作ったゲームを遊んでいたのは、ずいぶん前からになります。実際にきちんとお会いしたのは、3年ぐらい前の僕のラジオ番組でした。
シブサワ:
そうですね、はい。
伊集院:
ゲストにお越しいただいたあのときは、すごい反響でしたよ。
シブサワ:
楽しい楽しいゲームの話を自分勝手にさせていただきました。伊集院さんと身長が同じくらいだし、非常に親近感を感じましたね。
伊集院:
横幅は全然違うんですけどね(笑)。僕からしてみると、シブサワさんはパッケージに書いてある名前として、「なんだろうこの人」と思ったときがあれば、「この人は存在しないんじゃないか」と思ったこともありました。
そんな人といよいよラジオで対面することになったので、僕はドキドキしましたし、すごい感動しました。
シブサワ:
ありがとうございます。大好きなゲームの話ができたので、すごく楽しい思い出になっています。私はゲームを作るのが大好きですが、ゲームを遊ぶのも大好きなんです。
そして、ゲームの話をみんなといっしょにするのも大好きですね。とにかくゲームにぞっこん惚れ込んで、40年経っちゃいました。ゲームは私の一番仲のいいお友達です。
伊集院:
今日はそんな話にも触れて行きたいんですけど……。僕のなかで、お世辞抜きでゲーム業界から近い将来、大河に取り上げられる人が出るとしたら、シブサワさんだと思っています。
人生の波乱万丈さというか、ここから始まってここまで来ましたよの歴史が、あまりに面白くて。今日はちょっと、そのへんに突っ込んでいきたいですね。
シブサワ:
いやもう、ただ単にゲーム漬けの毎日を過ごしてきたっていうだけですから、そんなドラマティックではないんですけど……。ただファンの方々から、すごい反響をいただいて。面白いとか、𠮟咤激励されて。
そういうファンの方々とのコミュニケーションをずっと長年続けてきて、それを原動力として、ゲームの開発をしてきました。そういう仕事に就けたというのはすごく幸せで恵まれていたなと、いまは考えています。
ゲームクリエイター“シブサワ・コウ”はいかに誕生したのか
天明:
まずは、シブサワ・コウさんの40年を振り返るため、お話を伺っていきたいと思います。最初のトークテーマはこちら。
どのようにして、ゲームクリエイター“シブサワ・コウ”が誕生したのかを伺っていきたいと思います。ゲームを作ろうとしたきっかけから、お話しください。
伊集院:
そうですね。その前に一個押さえておかないといけないのは、すごく若いゲームファンの方もこの配信見てくださっていると思うんですけどね。いま皆さんの夢で、ゲームクリエイターになりたいという夢をお持ちの方がたくさんいると思います。
当時(40年前)は、ゲームというものが登場してまだ間もないので、ゲームクリエイターなんて仕事はありませんでした。噂に聞くとね、学生時代ミュージシャンだったっていうのは、あれは本当ですか?
シブサワ:
本当です。4年間どっぷり、ジャズとかボサノバの世界にハマっていました。ちょうど学生紛争があって大学が非常に荒れていた時代ですから、勉強したいワタクシとしては残念ながら勉強ができないので、音楽のほうに入ったと……。
それで、東芝からレコードを出したり、コンサートをやったり、ちょうどいまこちらにありますけども、こういうレコードを全部で、3枚出したりしました。
伊集院:
これは、激レアですよね。グループ名は何ですか?
シブサワ:
カルア(KALUA )っていうバンドなんですけども、ロックだとかボサノバとかジャズとか、そういった関係の音楽をやっていました。
ちょっとカレッジポップス系というか。その当時は、グループサウンズが非常に人気でしたから、学生のバンドということで、東芝さんが売り出してくださいました。非常に楽しい思い出です。
伊集院:
青春の香りがする楽曲ですね。この後、ゲームクリエイターになるまで、まだ出来事がありますよね。
シブサワ:
そうですね。家業が染料工業薬品の販売の仕事をしていました。残念ながら、私が27のときに廃業になってしまったのですが、もう一度私が一旗揚げようとして、光る栄えるという漢字を使って、光栄という会社を作ったんです。
家業である染料工業薬品の仕事を、もう一度スタートしたんですが、なかなかうまくいきませんでした。それで、いろんな知識を得たいと思って、本屋さんに行っていろんな本を読んでいるうちに、『月刊マイコン』という雑誌に出会いまして……。
何となしにマイコンは、何でもできる魔法の小箱みたいなイメージがしていました。ゲームもできるし、その当時は会社のオフィスオートメーションって言っていたのですが、会社の経営合理化に役立つとか、あるいは子どもの教育にも役に立つとか、いろんなことが書いてあって、すごく魅力的に感じたんです。
それで、マイコンを買いたいなと思いました。当時マイコンの値段が大体20万から30万円くらいで、とても買える値段ではありませんでしたが、家内がヘソクリをたっぷり持っていましたので……。
伊集院:
すごいですね。
シブサワ:
高校生のころから株式投資をずいぶんやっていて、私よりも全然お金持ちでした。いまでも当社の財務運用をやっています。
伊集院:
経済のニュースにも出てきますから、見てますよ。
シブサワ:
よくご存知ですね(笑)。その当時からずいぶん株式投資を一生懸命やっていまして。当時は短波ラジオで、ずっと株価が流れていたんです。「何が何円、何が何円」と一日中、音声が流れていました。家内は、それをずっと家の中で聞いていたんですよ。
伊集院:
すごいですね。当時はインターネットがないから、いわゆるネットのチャートなんてなくて……。いちばん早い情報は、短波放送の株式情報でしたが、素人が聞き取れるようなスピードではありませんでしたね。しかし、それを聞いてらっしゃった。
シブサワ:
そうですね。ずーっと毎日毎日、聞いてました。それで売り指示、買い指示を出して……。そういう投資に関しては、その当時からプロでしたね。
それで「マイコンがほしいのに、会社がなかなかうまくいっていないから買えないな」なんて話をしていたら「じゃあ私が買ってあげる」と言ってくれました。
独学でプログラミングを学び、ゲーム『川中島の合戦』を作る
伊集院:
機能的にはいまのものと比べたら、できることは相当少ないですよね。
シブサワ:
いまのスマホの多分、1万分の1くらいじゃないですかね。
伊集院:
そうなんですよ。しかし、当時のマイコンは、SF世界の物だったコンピューターが「家庭の物になりましたよ」という物だったんです。でも、ゲームのために使うようなイメージは、当時なかったんですよね。
シブサワ:
なかったですね。色々なことに使えるというので、まず最初は会社の財務管理、在庫管理といったソフトを作っていました。元々プログラミングができたわけじゃないんですよ。そのため、独学でベーシックなどのプログラミング言語を自分で覚えました。
それで会社の経営に役立つソフトを作って、会社に役に立てようというのが建前だったんですが、実際は夜なべ仕事で一生懸命ゲームを作って遊んでました。そうして何個かゲームを作っているうちに、面白いゲームができて……。
そのゲームが『川中島の合戦』でした。それで、こんなに面白いんだったら、きっと面白いと感じてくださるマイコンのユーザーさんが、日本に何人かいらっしゃるんじゃないかと。
そして、ひょっとしたら誰か買ってくださるかもしれないと思い、『月刊マイコン』という雑誌に白黒の半ページ広告、通信販売の広告を出しました。そうしたら郵便局の局員さんが、現金書留を山のように持ってきて「シブサワさん何か悪いことしたんですか?」と言われました(笑)。
伊集院:
シブサワさんのお話ですごいのが、ゲームが出てくるまでに朝ドラで2ヵ月かかりそうなくらいの出来事があったことですね。そして、いよいよゲームを出してみたら、欲しいという人がいっぱいいたんですね。
シブサワ:
たくさんいました。当時はカセットテープがおもなメディアでしたから、ゲームソフトのプログラムをカセットテープにダビング。さらに、パッケージを綺麗に包装し、郵送するまでが一連のビジネスとなっていました。
そんななか、私がすごく感激したのは、買ってくださったお客様が面白いということを手紙や電話といったもので、伝えてくれたことです。いまもそれはまったく変わっていません。
「ここが面白いよ」、「あそこはああしたほうがいいよ」といったお客様からの色々な反響がゲーム作りの醍醐味ですね。最近はMetacriticという、海外の評価サイトが点数でゲームを評価しています。
そこで80点以上とか90点以上になると、大体ワールドワイドで300万本とか500万本とか1000万本とか売れるので、現在のゲームビジネスはかなり大きくなっています。
しかし、その当時は、お客様がゲームを開発するスタッフ、開発者に直接意見を言ってくださる。「つぎは信長を主人公にした戦国時代のゲームを作ってよ」というような意見をたくさんいただく。そういうのがすごく楽しくて、私の最大のやりがいにつながっていきました。
伊集院:
僕はまさに、その当時『川中島の合戦』に出会うんですけど、いまでも覚えています。秋葉原のヤマギワテクニカというパソコンのソフト中心の店舗があって……。その地下売り場か、ソフマップの小さな店舗がソフトを売っていました。
シブサワ:
ありましたね。
伊集院:
そこにダビングしたてみたいなカセットテープがあったんです。そこに実物がありますけど、その赤いパッケージですよね。
シブサワ:
このパッケージ。業界の方からは赤箱と呼ばれています。パッケージのデザインは、当社の現在の会長である襟川恵子がデザインしていました。ワタクシの家内なのですが、家の中でも上司ですし、会社の中でも上司なんです(笑)。
伊集院:
いま思うと『川中島の合戦』の後も、赤箱と言えば光栄の作品じゃないですか。
シブサワ:
そうですね。
伊集院:
当時のユーザーからすると、ほかのメーカーの大きいパッケージもあったなかで、この赤箱をちょっとみんな信頼するようになっていました。赤箱と言えば光栄で、赤箱の下に書かれたタイトルを見て「あ、新しいの出てる」みたいになりましたね。
シブサワ:
おっしゃられるように、そういうブランド戦略でした。ゲームを作るときに、責任ある人が存在したほうがいいということで、シブサワ・コウというプロデューサー名は会長の襟川が考えました。
襟川は、元々ファッションのビジネスをやっていたんです。グッチやルイ・ヴィトンといったファッションブランドがデザイナーの名前を売り出していたので、ゲームソフトも同じく「開発したプロデューサー名を書いたほうがいい」ということになりました。
名前を考える際に、私は渋沢栄一を非常に尊敬していましたので、そこからシブサワというお名前を借りて、光栄のコウをつなげて、シブサワ・コウという名前にしたんです。
伊集院:
すごい先見の明があるというか、プロデューサーの名前でゲームを買うことは、いまでこそあるかもしれませんが、当時パソコンのゲームソフトは本当にピンキリでした。
有象無象がいっぱいあったから、何がいいのか分からないんですよ。そういうことが分からないなかで、ブランド戦略を見つけたのは大きいですよね。
シブサワ:
そうですね。そういうマーケティング的な発想やブランド戦略は、ずっと会長の襟川がやっていました。そのため、おもしろいゲームを作ることばかりに一生懸命だった私は非常に助かりました。