「ナウシカ」「トトロ」も当時は不入りだった? ヤマト・ガンダム・マクロスetc…強敵だらけの“第一次アニメブーム”を軸に「ジブリ不遇の80年代」をふり返る
毎週日曜日の夜8時からニコニコで放送中の『岡田斗司夫ゼミ』。
1月7日の放送では、1980年代を中心としたスタジオジブリの動向と、当時の宮崎駿監督の周辺事情をテーマに解説。
1978年の『未来少年コナン』放映スタートから、1982年の『紅の豚』が公開されるまでの間、宮崎駿氏に何が起こっていたのか? パーソナリティの岡田斗司夫氏がレビューしました。
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年表で見るジブリの歴史
岡田:
今回、“ジブリ年表”というのを作ってみました。
1978年4月 『未来少年コナン』放映
1979年12月 『ルパン三世 カリオストロの城』公開
1984年3月 『風の谷のナウシカ』公開
1986年8月 『天空の城ラピュタ』公開
1988年4月 『となりのトトロ』『火垂るの墓』公開
1989年7月 『魔女の宅急便』公開
1991年7月 『おもひでぽろぽろ』公開
1992年7月 『紅の豚』公開
本当は、他にも「ナウシカの漫画版の連載がここで始まった」とか、「その連載がここで中断した」とか、いろんな出来事があるんですけども、今回はトークテーマに関係のあるものだけを書いています。
『カリオストロの城』の興行的失敗で業界を干された宮崎駿
岡田:
まず、78年の4月に『未来少年コナン』が放映されて、その翌年の79年12月『カリオストロの城』が公開。この辺りの時代が第1期宮崎評価時代だと思うんですよ。
『未来少年コナン』全26話がNHKで放送されて、「宮崎駿ってすごいじゃん!」と評判になり、『カリオストロの城』で劇場映画監督としてデビューした。
まあ、この時の評判は、あくまでアニメ業界内だけのものだったんですけど。
ところが、その『カリオストロの城』がもう本当に、日本の映画史に残るくらいに興行的に失敗して、宮崎駿はあっという間に業界から干されてしまうんです。
その後、5年あまりの沈黙を経て、84年3月に『風の谷のナウシカ』が公開されます。もちろん、この間に漫画版の「ナウシカ」を描いたりしていました。
『ラピュタ』以後、道を違える宮崎駿と高畑勲
岡田:
そして、86年8月に『天空の城ラピュタ』が公開されます。「ナウシカ」から「ラピュタ」の間って、2年間も時間が空いているんですね。
1984年3月 『風の谷のナウシカ』公開
1986年8月 『天空の城ラピュタ』公開
1988年4月 『となりのトトロ』『火垂るの墓』公開
これは、スタッフを全員解散させたところからもう一度集めたためで、この時期は本当に無駄な時間が多かったみたいなんですね。
そして、 『天空の城ラピュタ』公開の後に「『となりのトトロ』『火垂るの墓』公開」というふうに、なぜ高畑勲【※】作品のことまで併記したかというと、実は「ラピュタ」が、高畑勲がプロデューサーを手掛ける最後の作品になったからなんです。
1935年生まれ。日本の映画監督、演出家、プロデューサー、翻訳家。1985年に宮崎駿、鈴木敏夫とともにスタジオジブリの設立に携わった人物でもある。『ルパン三世 』、アニメ映画「パンダ・コパンダ」の2作品、『アルプスの少女ハイジ』、『母をたずねて三千里』、『赤毛のアン』、『未来少年コナン』など、数多くの名作の制作に関わってきた、日本アニメーション界の偉人のひとり。(画像はWikipediaより)
これは「宮崎駿が高畑勲の手を離れた作品」と言うことも出来るんですが、「両者の思想的な違いが表面化した」とも言えますし、あるいは「卒業の時期が来て、お互いがプロデューサーをやるような時代じゃなくなった」とも言えます。そういった部分が「ラピュタ」を作ったことで明確になったんですね。
「ラピュタ」の作り方に関しては、高畑さんも色々と文句を言っていますし、宮崎さんも『火垂るの墓』や『おもひでぽろぽろ』という高畑作品に関して、後になってから「いやいや、あれはないよね」みたいなことを言っています。
そういうところからも、やっぱり、二人の思想的な別離がハッキリしたのが「ラピュタ」という作品なんだと思います。
実は不入りだった公開当時の『となりのトトロ』
岡田:
その後、1988年に『となりのトトロ』と『火垂るの墓』が公開されます。
現在では評価の高い「トトロ」なんですけど、この2本立ては、映画館では不入りだったんですね。
「ナウシカ」はそこそこ興行成績が良かったんですけども、「ラピュタ」に関しては、公開後のビデオの販売とかで、ようやっと予算を取り返したくらいの作品なんですね。
『となりのトトロ』と『火垂るの墓』の興行成績に関しても、まあ全然ダメでした。 その後、89年の『魔女の宅急便』公開から、ジブリが儲かりだします。
儲かりだしたジブリがその後何をしたかというと、91年に『おもひでぽろぽろ』をやってしまうんですね。また、それで大赤字です。
で、もう、この『おもひでぽろぽろ』の時期になると、宮崎駿と高畑勲は同じ部屋の中で仕事が出来なくなってしまいます。92年の『紅の豚』というのは、同じジブリの中であっても、それぞれが別のスタジオに分かれて仕事をして始めました。
第1次アニメブームに全く乗れなかった宮崎駿
岡田:
さて、これについては皆さんもご存知かとは思いますが、宮崎駿が『未来少年コナン』を作ったのと同時に、『さらば宇宙戦艦ヤマト』が公開されてしまったんですね。
宮崎駿としては「これぞSF! これぞアニメ!」というつもりで、NHKという枠で仕掛けた渾身の作品は、『さらば宇宙戦艦ヤマト』というアニメブームの大波に飲まれてしまいました。
結果、当時としては、一部のアニメマニアの人を除いて、『未来少年コナン』という作品を評価してくれる人はほとんどいなかったんです。
さらに、『カリオストロの城』という、宮崎さんにとっては「自分がやりたいことを全て詰め込んで発表した!」と思っていた、初めての劇場監督作品でも、ほとんど同時期に『機動戦士ガンダム』のオンエアが始まってしまうんです。
結果、当時のアニメの雑誌は、『アニメージュ【※】』以外は、ほとんどガンダム一色になってしまいました。
『アニメージュ』は、徳間書店から1978年5月26日に創刊された月刊アニメ雑誌。毎月10日発売。略称はAM。愛称はメージュ。 現存するアニメ雑誌では最古参にあたる。(画像は月刊アニメージュ【公式サイト】より)
『風の谷のナウシカ』に関しても、今では、あんなに再放送されてるから、公開当時からすごく評判が良かったような気がするんですけども。実は、同時に公開された劇場版の『超時空要塞マクロス【※】』と、興行成績ではどっこいどっこいだったんですね。おまけに、関連商品とかを含めて見たら、明らかに『マクロス』の方が売れてるわけなんですよ。
テレビアニメ『超時空要塞マクロス』(1982年 – 1983年放送)の劇場用作品。1984年7月21日より東宝洋画系にて公開された。キャッチコピーは「それは時空を超えたラブソング」「ミンメイ 最大戦速(マクロスピード)!!」(画像はAmazonより)
なので、宮崎駿にとって、『未来少年コナン』を作った70年代から『天空の城ラピュタ』を含めた80年代の前半というのは、なんとか作品を作らせてもらってはいたけれど、徹底的に不遇の時代だったんですね。
そういう意味で、「宇宙戦艦ヤマト」から始まって「マクロス」で終るような、いわゆる“第1次アニメブーム”に乗れなかった作家というふうに、僕は位置づけています。
もちろん、それは「当時は、宮崎駿のスゴさを、ほとんど誰も理解していなかった」ということでもあるんですけどね。
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