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「AIは魂を持つのか? ゴーストが宿るのか?」押井守(映画監督)×山田胡瓜(漫画家・『AIの遺電子』作者)特別対談

押井:
 キャラだけじゃなくロボットでも戦車でも一緒だと思うんですけど、軍事的なものを扱う以前に、兵器には興味もっても兵器を動かすシステムに関してはあんまり興味もたない。飛行機なら飛行機の飛ぶ原理に関しては割りとあんまり考えないっていうってね。なんとなく格好から入っちゃう。そうすると、ハッキリ言ってやることが無いんですよ。設定は新しいけど、ドラマは意外と古臭いドラマをやるしかなくて。

 本来、そうしたテクノロジーにはその時代に特有の問題のあり方が現れるんです。携帯電話なんかはそうだと思うんですけど、携帯が普及することで世の中まるっきり変わっちゃいましたよね。登場したことで携帯がドラマを作る脚本の書き方を変えちゃったんです。人と人が会わなくてもドラマが成立するので、極端に言うと役者同士が顔をあわさなくても済むようになっちゃった。別撮りできるから。確実に世の中も変えたけど、映画のつくりかたとか、ドラマのつくりかたまで変えちゃった。技術ってそういうもんなんですよ。やっぱり、スティーブ・ジョブズが正しかった。たしかに商品が世の中を変えるっていうね。ただし、悪い方に変えた(笑)。

ジョブズ後の世界で、バーチャルと現実の関係は変化した?

山田:
 今まさに、ジョブズが変えてしまった世の中を生きているんですが、その中で押井さんに聞いてみたいことがあって。僕らは「歩きスマホ」なんて問題が出てくるぐらい、画面の向こうの世界に夢中です。VRやARといった技術もだいぶ広まってきた。そういうバーチャルに浸る技術がどんどん進化する中で、現実の価値って下がってやしないかという……さらに言えば、そういう世の中で「物語」のあり方ってどうなっちゃうんだろう、ってことが気になっているんです。

 元々フィクションって、現実という動かしにくいものがあって、そことの距離で「この嘘気持ちいいな」とか、「そんな飛べたら興ざめだよ」っていうような、面白みのバランスがあったと思うんです。でも、生まれた時からアニメがあって、携帯電話も手にして、四六時中バーチャルな窓があるっていう状態で、そちらを見ていることの方が多いというような人が増えてきた。そういう中で、嘘をつくための土台だった現実との関係性があんまり重視されなくなってるんじゃないか、という気がするんです。

 物語は昔から、現実を肯定したり、理解したりするツールとしての役割を持っていたと思うんですが、その役割の人気がなくなっている感じがするんですね。現実との距離じゃなくて、心地良い嘘であれば良しみたいな。単なる快楽の方に行っちゃってるような気がしています。

押井:
 うん。消費財になっちゃったっていう。現実も、既に二次的現実の方が日常に占める割合が圧倒的に増えてきているんだ。基本的に伝達された現実で、自分の直接知りうる範囲は逆にどんどん狭くなっていってる。一見、そういった窓がいっぱい増えて情報がいっぱい入ってくるように見えるんだけど、実は全部二次情報でしかない。そういう意味では現実の値打ちが下がったっていうのは、たぶんそのとおり。

 昔は、現実を舞台にしつつ「ある物語」を作ることが、最終的に現実にフィードバックして帰ってくる…… そういうサイクルが機能していた。だから、映画をみたり小説を読んだりすることに意味があったわけだ。仮に違う人生とかを生きることができる、世の中の有り様をそこで学ぶ、そういうふうな機能があったんだけども、今は快感原則が満たされれば良いって、単なる消費財になっちゃってる。YouTubeとか正にそうなんだけどさ、結局何を伝えたいか?ってことの中身がどんどん無くなっていくんですよ。結果的に快感原則だけが残ってく。正に今、アニメーションではそれが殆どになりつつあるよね。

 結局、現実の値打ちが下がるってのは面白い言い方だなって思ったけど、確かにその通りだね。

現実とのギャップを受けることが、実は「私にとって現実を生きること」

山田:
 押井さんは「本人にとってそれが大切なものであればバーチャルであっても大きな意味を持つんだ」っていうようなことを色んな形で作品に込められてきたと思うんですけど。それは一方で、押井さんが現実を大切にしていて、そことの関係性があったからこそ、バーチャルに価値を見出だしていたと思うんです。だけど、最近はバーチャル側だけに行ってしまうことの怖さというか、そういう中で共有できないものがどんどん増えているという思いがあって……

押井:
 現実と仮想された現実、両方があってね、はじめてバーチャルの値打ちが出てくるわけでさ。だから、現実に帰ってこないのであれば、それはもはやバーチャルですらないっていうね。それは世の中で子どもがゲームばっかりやってダメになるとか、アニメばっかり見てるとダメになると、漫画しか読まなくなったとかいう、以前の話だよね。実際問題、今はもっと酷くて、漫画すら読まない、アニメすら見ない、ゲームもかったるいからやらないっていう。コレって強いて言えば現実とバーチャルって以前に現実の危機だと思うわけ。バーチャルって現実を写し取るための一つの方便だったから。だからこそ、ゲームやり込んだりとか、漫画ばっかり読んだりとかいうことに値打ちがあったわけだよね。それが無くなっちゃたんだ。だから現実の底が抜ければバーチャルの値打ちが下がるのは当たり前だろってさ。

押井:
 昔から、今でもゲームをやり込んでいて、1年くらい同じゲームを延々とやってるんですよ。1日の大半はそっちの違う世界に頭が行っちゃってるけど、でも、そこから帰ってくるわけじゃない? たぶんそのギャップを受けることが実は「私にとって現実を生きること」の中身なんだ。自分に辛い現実があるから、憧れで満たされている世界が欲しいというさ。まあアニメなんか正にそうだったんだけど。

 依然として現実は厳しいにしても、他にいたしようが無くなっちゃった、立ち向かいようが無いってとこまで行っちゃうと自動的にバーチャルの値打ちも下がるんですよ。多分、消費すればするだけ安くなっちゃう。

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