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なぜ『シン・ゴジラ』は海外で受け入れられなかったのか―― 原因は“巨災対の家族描写”に? 評論家が考察

なぜ、シン・ゴジラは海外でヒットしなかったのか。

岡田:
 『シン・ゴジラ』には人物の掘り下げがないんですよ。これはもう『シン・ゴジラ』に限ったことではなくて、『エヴァンゲリオン』以来ずっと続いている庵野秀明監督の苦手分野なんですよ、キャラにしちゃってる。人物じゃなくキャラなんですよね。

 例えば、『エヴァンゲリオン』の碇司令っていうキャラっていうのは、不思議な生き物ですね。あの登場シーンしか想像がつかない、その裏側はどういう風になっているのかとか、私生活はどうなっているのかっていうのは、パロディーとか二次創作には出てくるんですけども、本編では全くわからないんですよね。

 それは、そういう風な人物だからっていうふうに考えちゃえばいいんですけども、そういうのが多すぎるんですよね。それはなんでかっていうと、キャラ、役割というふうに割り切っているからなんですよ。

 『ガラスの仮面』の月影先生という、北島マヤをものすごく厳しく育てる先生がいて、いつもすごい雰囲気をしょって出てくるんですけども、あの人も私生活が想像できないんですね。庵野秀明の作画方法というのは基本的に少女漫画であって、メインキャラというのはいろんなところから光を当てるんですけども、サブキャラになった瞬間に、一方向からしか光をあてずに、全て主人公なりドラマなりを照らし出すための、役割を与えてしまうんですね。

 『シン・ゴジラ』っていうのは、キャラクターの掘り下げをしない代わりに、展開を早くしたり、劇的な構図、構図をものすごい劇的なもので見せたりして、あんまり気にならなくしているんですね。もちろん全ての映画や全ての監督が、人物の掘り下げをしなきゃいけないわけじゃないんですよ。映画によっては、作品によっては、人物の掘り下げとか必要がないのもあるし、それが邪魔になるのもあるんですよ。

 例えば、『秘密結社鷹の爪』みたいなギャグアニメとか『おそ松さん』にしても、あまり掘り下げると成立しなくなるから、ほどほどにしないといけないんですね。その辺は、人物の掘り下げっていうのは、思い切って切り捨ててるから庵野作品の面白さというのが、成立している。

主人公クラスに家族が描かれていないと、子供向けの映画に分類されてしまう。

岡田:
 しかし、ハリウッドとかヨーロッパっていうところは、掘り下げのないキャラっていうのは、基本的に受け入れてくれないんですよね。お話にウソは一つだけでっていう法則があって、SF作品でいい作品で、例えば、『タイムトラベル』をやるんだったら、『タイムトラベル』っていうウソはやってもいいんだけど、その他のことは全てリアルにしないと、お話自体がウソくさくなっちゃう。

 『シン・ゴジラ』は、ゴジラという大ウソをついているんですね。ゴジラが海からあがってくるっていう大ウソをついているから、その他は全部本当らしくあるべきなんですよ。自衛隊の作戦とかも、全部本当らしくあるべきなんですけど、ただキャラの掘り下げができてないから、キャラにウソ臭さが感じちゃうんですね。

 例えば、主人公の矢口という官僚は、家族も描かれていない。これは昔からよく言われていることなんです。この家族とかが描かれていない段階で、たぶんヨーロッパの観客、アメリカの観客は、怪獣が出てきて、主人公クラスに家族が描かれていないと、「あー、子供向けの、いわゆる低年齢向けのディズニーみたいなもんだね。」と、自動的にかちゃっと分類分けしてしまうんですね。

 なんでこれが、日本で大丈夫なのかっていうと、日本ではこの20年くらい、掘り下げのないキャラで、ドラマとか映画とかをものすごく作ってきたんですね。その掘り下げのない部分、その俳優さんやアイドルの私生活とかの「イメージ」で、キャラの厚みというのをだしていたんですけども、基本的にそんな掘り下げというのを、今でも掘り下げやっている監督いるから、『怒り』っていうのは、例えば、なんで日本のアカデミー賞の候補になったかっていうと、対照的な作品なんですね。

 『怒り』にしても去年の『64(ロクヨン)』にしても、キャラ掘り下げてなんぼの作品なので、だから話が重たくて暗くて、登場人物が自分の悩みをすぐにセリフにしてしまう。これは僕がよく日本の映画の悪口を言っちゃうところですね。

 自分の悩みをすぐセリフにしてしまうのは、何かっていうと、掘り下げるべき内面がいっぱいあるから、ついつい脚本家はセリフでしゃべらせちゃうんですよ。下手くそなんですけども。でも『シン・ゴジラ』はそういう格好悪いことはやってないんですね。掘り下げた内面というのをセリフで言わせることをしてない代わりに、もともと掘り下げる内面がないっていう構造になってるんですけども。

喫茶店スパゲッティの大傑作である「ナポリタン」もイタリアでは受け入れられない。

岡田:
 その意味でね、日本の映画や、ドラマっていうのは、ガラパコス化しているともいえるんですね。それにあまりにもチューニングし過ぎてて、『シン・ゴジラ』っていうのは、日本ではあの形式がすごい受け入れられるんですけども、海外ではアジア圏ですら、「ちょっとこれは大人向けの映画としては。」と思われちゃう。

 言っちゃえば、ナポリタンスパゲッティの大傑作みたいなもんですよね。日本では、ナポリタンスパゲッティの、喫茶店スパゲッティの大傑作ということで受け入れられるんですけども、じゃあそれを、イタリアに持っていったら、パスタとして受け入れられるかっていうと、ちょっとそれはキツイ。でもナポリタンとしては美味しいから、日本人としては文句言われる筋合い全くないんですよ。

 それを海外に持っていって、あれをパスタとして出したら、それはダメだよなって、思っちゃうんですよね。仕方ないんですよ。なんでかっていうと、映画っていうフォーマットは彼らが作ったもんだからですね。アメリカ人が作った侍映画とか忍者映画を見たら、僕ら違うって思っちゃうじゃないですか。同じように、『シン・ゴジラ』を映画として出したら、大人向け映画として出したら、あのキャラの掘り下げのなさっていうのは、それ違うって思われるんですね。

 僕らは、掘り下げがあるように感じるんですよ。例えば、ピエール瀧がやっている自衛隊の隊長みたいな人が、「落ち込んでいる暇はない。次はこれだ。」って言うところで、僕らは心にぐっとくるんですけど、ところがそれをあっちの人が見たら、「ちょっと待てよ。そいつにそんなセリフを言わせるくらいだったら、主人公の矢口のキャラを掘り下げろよ。」っていうふうに思っちゃう。

 ここら辺の周辺のキャラのちょっとずつのいいセリフを見せれば、キャラ掘り下げているって思っちゃうのと、「そうじゃないよ。映画っていうのは、主人公が誰で、対立しているのは誰で。」という、明らかな作劇で見ている民族とは、やっぱりちょっと見方が違うんですね。

庵野秀明は宮崎駿の弟子ではなく、実は、押井守の弟子。

岡田:
 だからといって、日本人には掘り下げのある作品が作れないというわけではないんですよ。掘り下げが、『君の名は。』だって、そんなにあるわけじゃないんですけども、受け入れられる形で作れば、かなりいけるし、『この世界の片隅に』というのは、『シン・ゴジラ』と逆で、とことん掘り下げたらどういうふうになるのかっていうふうに作っているので、ちょっと面白いなと思いました。

 この辺は、押井守の「映画というのは、ドメスティックなものであって、その国以外が見るようにはもともとできてない。」という論があるんですよ。庵野秀明は、今回のゴジラの作り方、作劇の作り方、会議室の中と外部とで、二つの事件が起こっていて、それをぶつけるというやり方からみてわかるように、実は宮崎駿の弟子ではなく、庵野秀明は押井守の弟子なんですね。

 なので押井守と同じくドメスティックな範囲を映画は超えられないっていう縛り、呪縛に、本人も囲まれているんじゃないかなと思いました。以上ですね、『シン・ゴジラ』は海外ではダメだった理由っていうか、ダメってことではないんですね、僕らの思惑通りにはヒットしなかった理由というのを僕なりに考えてみました。

▼記事化の箇所は10:49から視聴できます▼

岡田斗司夫ゼミ

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