世界中で急増する調査兵団、腐女子に留まらない『ユーリ』人気、奇跡の視聴率100%アニメ――今知るべき“海外オタク”の最前線【国際オタクイベント協会 代表インタビュー】
毎年、世界で開催されている「オタク文化」をテーマにしたイベントの数は一体何個あるか、ご存知だろうか?
その数――1000個をゆうに超える。参加者数の合計で言えば2000万人以上を記録し、未だに増加の一途を辿っている。
クールジャパンなる標語が謳われて久しい昨今、日本産のポップカルチャーやオタクイベントの盛り上がりの気配は、日々ネット等を通してご存知の方が大多数だろう。だが、その詳細な実態について熟知する者となると、思いの外、ガクッと目減りするのではないだろうか。
【C94総力特集】コスプレ・同人・企業ブース――コミケの魅力を生放送とレポート記事でお届けします【2018夏コミ】※随時更新
例えば、43年もの歴史を誇る日本最大級のオタクの祭典「コミックマーケット」が来たる8月10〜12日に開催される。その動員数はといえば約50万人と確かにオタクの聖地と呼ぶにふさわしい規模であるが、実は海外には中国を中心にもっと巨大なオタクイベントがごろごろ転がっていると言ったら、どう思うだろうか。
もはや、いつまでも諸手を挙げて「日本のオタクカルチャーが海外でウケている“らしいね”」などと呑気に喜んでいる場合ではないだろう。今こそ、このアドバンテージがどのようにもたらされたかを総括し、今後どのように活用していくべきかに真剣に考えを巡らすべき時かもしれない――。
そうした問題意識の下、本稿では、海外イベントの主要118団体をとりまとめる「国際オタクイベント協会(I.O.E.A.)」の、代表・佐藤一毅氏に話を伺ってみた。
I.O.E.A.とはいかなる団体なのか発端に、そもそもどのように海外に日本のオタクカルチャーが広まっていったか、そして最新の各地域の傾向に至るまで、一歩踏み込んだ「海外のオタク事情」に迫った。
取材、文/まなべ
取材、撮影/レオ・ハリス
アニメ見たさに亡命!? 海外イベントの“今”
――今日は「日本のオタク文化」が海外でどのように受容されていったか、その歴史と現在について明らかにしていければと思います。そのためにまず、海外のオタクイベントをまとめられているI.O.E.A.と佐藤さんの活動について読者の皆さまにご紹介できればと思います。
佐藤氏:
I.O.E.A.(International Otaku Expo Association)は日本語では「国際オタクイベント協会」といって、44の国と地域と118の国内外のイベントが加盟している協会です。イメージしやすい分類としては、シンクタンクや国連に近い位置づけで、オタク系のイベントをとりまとめています。
日本向けの活動としては、まずは「海外イベントを日本に紹介する」というのを一つの目標として情報発信やカタログを作ったりしていますね。
というのも、日本のオタクカルチャーが海外でどのように受容されているかって、なかなか日本では実感できないんですよね。例えば、日本のオタクイベントといえば「コミックマーケット」で、動員数が50数万人とそれはそれで凄いのですが、中国系のイベントだと100万人超えのイベントなんかがいくつもあるんですよ。I.O.E.A.が理事の香港のイベントも70万人ほどの規模です。
――えええ! 知りませんでした……。
佐藤氏:
そうした日本のオタクカルチャーに対する認識のギャップがある中で、まずは海外には色んなイベントというのがあるんだということを知ってもらおうと思っているんです。
例えばI.O.E.A.の加盟イベントには、キューバやイスラエルなんかの国もいるんですよ。で、去年キューバに行ったんですが、キューバでは昔から「おしん」など日本ドラマが流行っていて日本コンテンツに馴染みがあり、オタク向けのコンテンツも、アメリカ亡命者の親族などからひっそりとアニメが送られてきて見ていたりしたらしくて。
――いきなりとんでもない話ですね(笑)。それじゃあまるで、アニメが“こっそり楽しむ”密輸品かのような趣すら感じますが、当局としては大丈夫だったのでしょうか?
佐藤氏:
実はキューバのイベントって、一時期は当局の意向で「お取り潰し」になりかけるという危機的な状況にあって……その理由が、創立者がアニメを見たいがためにアメリカに亡命したという話で(笑)。
――アニメのために亡命(笑)。……もはや海外オタクの情熱は、一国家が真面目に問題視する程に極まってるんですね。
佐藤氏:
まあそうした面白話もありつつ、一方で「世界オタク研究所」と共に日本のオタクカルチャーの文化的意義をアカデミックに評価する活動なんかもしています。例えば、昔の浮世絵とかも海外の学者が認めて評価がなされましたが、それと同じように、今の日本のオタク文化もアートのひとつとして美術館できちんと扱われている現実があるわけですよ。
とすると、文化外交という視点でも、イベントというのは単に「アニメやマンガを買うお客さんが集まっている」ということに留まらない文化的な価値があるんです。だって、世界を見回してみても、オタク系のイベントより大きい日本に関するイベントなんてほとんどないので、これ以上にない日本をアピールするチャンスの場なわけですよ。
――確かに、その状況を指を加えて眺めてるだけって、日本にとってはかなり勿体無いですよね。要するに、そうした海外のオタク系イベントの連携を通じて、日本の文化外交の“旗振り役”をI.O.E.A.が買って出ているという感じですね。
佐藤氏:
実際、海外のイベントから見えてくることってとてつもなく多いんです。例えば、その国の人気IPを知りたければ、現地のコスプレイヤーを見れば一発で分かるんですよ。なぜなら、企業のブースはお金を出しさえすれば出展できたりしますけれど、コスプレイヤーは本当に自分の好きなもののコスプレしかしないから。そんなふうに、イベントから現在のオタクカルチャーの情勢だって読み解けるんです。
例えば、ちょっと前の『進撃の巨人』の広まり方は非常に特徴的でしたね。2013年の春のイベントでは全く見かけなかったのに、あっという間に広まって秋には本当に世界中のどのイベントに行っても調査兵団がいましたから。
――なるほど(笑)。まさに今日は佐藤様に、そうした海外のイベントを数多く見てこられた中での、実感の伴ったお話を聞いていければと思っています!
70年代:ヨーロッパで奇跡の「視聴率100%」達成!?
――とはいえ、まずは一旦、今に至るまでの海外のオタク系イベントが興った「歴史」を順に聞いていきたいです。その大前提の話として、そもそも日本のオタクカルチャーってどのように海外に広まっていったのでしょう?
佐藤氏:
海外での日本のオタクカルチャーの受容を考えるときには、大まかに「ヨーロッパ」「アメリカ」「中華系」の3つを分けて考えると理解がしやすいかなと思います。その3つの地域では、最初にオタクカルチャーがどのように伝わったかの歴史が異なっていて、しかもそれがその後のその地域の特徴にまで影響しているんですよ。
――歴史がそのまま現在に繋がると。では、その3つの地域の概観だけでもお聞かせいただけますか?
佐藤氏:
まず、ヨーロッパの特徴は「国民全員が見ている」ことですね。特にフランスなんかに行くと、最初期の1978年に放送されてた永井豪の『UFOロボ グレンダイザー』(仏題は『GOLDORAK』)なんて、今の30〜40代は100%見ているんです。これは比喩でもなんでもなくて、実際に「視聴率100%」だったんです。
――ひゃ……100%!? フランスで永井豪が人気だという話はよく聞きますが、そこまで凄まじいとは。
佐藤氏:
『マジンガーZ』『デビルマン』も含めて、永井豪って当時はディズニーをも凌ぐ勢いでものすごく売れていたんですよ。もしちゃんと印税が入る契約になっていたら、数千億はくだらない程に儲けたんじゃないかと言われていますからね。
あと、少し後の1988年に放送された『キャプテン翼』(仏題は『Olive et Tom』)もみんなが知ってる作品ですね。この前、スペインのイニエスタ選手が来日した時、いの一番で向かったのは作者の高橋陽一氏のところでしたから。そうした「ゴッド高橋」の人気は凄まじいものがあるんですが、日本人は全く実感できてない。正直こないだのワールドカップで彼をレポーターに派遣したらどのチームでもどの選手にもいつでもアポイント取れたと思いますよ。
— 高橋陽一 Yoichi TAKAHASHI (@0728takahashi) May 28, 2018
※直筆のイラストを携えた高橋陽一氏に迎えられたイニエスタ選手。
――まさに放送から10年が経った1998年に、フランスはワールドカップで優勝するわけですが、そうしたフランスにおけるサッカーの隆盛に『キャプテン翼』はかなり影響を与えてますよね。実際、あのジダン選手も大ファンとして知られてますし。……ただ疑問なのが、日本のアニメはなぜそんなにもヨーロッパで普及したのでしょうか?
佐藤氏:
まず根本的に日本のアニメは面白かった。これは大前提です。その上でこれはヨーロッパに限らない話ですが、一番大きかったのが、日本のアニメがほとんどタダ同然で海外に買われていったことなんですよ。
つい先日も、中国企業が『ウルトラマン』の日本以外の版権を持っているという裁判で円谷プロと争っていることが話題になりましたが、当時はそうした「日本以外の全権利を譲ります」みたいな契約にいつの間にかサインしちゃうことって結構あったみたいなんですね。
そうしたある種の杜撰な運用によって、ものすごく安いわりに面白い日本のアニメが、枠が余っている海外の放送局で流れるようになったわけです。で、信じられないような視聴率を叩き出して、何度もヘビーローテーションをしながら浸透していった。フランスなんかでは、夕方の2時間は基本的に全部日本のアニメ、みたいな状態が続いていたらしいですからね。
――日本で言うと、ジブリアニメなんかがまさにテレビの再放送で高視聴率を叩き出し続けて「国民的アニメ」になったわけですが、それと比べ物にならないくらいの規模と頻度だった……ということですよね。
佐藤氏:
その意味では、例えば南米では特撮系の宇宙刑事ものや戦隊ものが人気あるんですけど、そこでは『機動刑事ジバン』と『世界忍者戦ジライヤ』などが凄まじく流行っていて日本と全く違うんですよ。
これ、どうしてだか分かりますか?
――えっと……なんででしょう?
佐藤氏:
日本であまり人気がなかった作品だったため、ほぼタダ同然で現地の放送局が入手したんですね。きちんと日本クオリティでしたから当然人気が出ます。
で、さらに特筆すべきは現地で80年代から約20年間に渡って正月も関係なく毎日放送し続けられたのです。これは南米だけです。だから今の10〜40代ぐらいまでの人は全員、番組に登場する役者を本当に知っているんです。実際、ブラジルのイベントで招かれた際に、現地日系人の要職についてる人が「今彼が国会議員に立候補したら100%当選するよ。正義の人のイメージがあるからね」と言っていましたからね。
――それはすごい(笑)。ただ、「ほぼタダ同然でバラまいたからこそ普及した」という話でしたが、それだと「なぜ視聴率を稼げたのか」の部分の答えにはなってないと思うんです。一体、海外の方にとって、何がそんなにヘビロテする程に面白かったのでしょう?
佐藤氏:
一つには、日本のアニメが、「大人が見ても面白いものだった」というのがあると思います。子供向け番組にそうした性質の作品がなかった世界中に、アニメが新しい世界を示したんです。例えば永井豪さんの『デビルマン』って、今見ても「ここまでやるか」と衝撃を受けるレベルで残虐なシーンも入れながら、深いテーマを描いていたわけですよ。それが、やっぱりものすごいカルチャーショックだったという話は、海外の方からよく聞きますね。
ちなみに、それで言うとイギリスだけが、「BBCはアニメみたいな低俗なものはいりません」という感じで放送しなかったそうで、その影響で人口に比べてオタクコンテンツの浸透が遅いと言われてます。「『空飛ぶモンティ・パイソン』【※】やってるくせに、何を」って思うのですが。
――まあ、自国のコンテンツはまた別なのかもしれません(笑)。
※空飛ぶモンティ・パイソン
1969年から1974年までイギリスのテレビ局・BBCが製作・放映していたコメディ番組。ジェンダーや民族、宗教上の問題を取り扱ったきわどいネタも多く物議を醸した。
アメリカで「コアな趣味」化した理由
佐藤氏:
ただその意味では、「アメリカ」におけるアニメって、いわゆる子ども向けではなく、ティーンエイジャー以上のマニア向けのコンテンツとして始まっているんですよ。
というのも、アメリカの場合は特に主要な放送局が80年代から3つしかなくて、その中にいきなり入り込むのは当時ハードルが高かったんですよね。実際、メジャーな放送局できちんと放送されたことはヨーロッパと違って一度もない上、視聴率80%とったアニメもまた一個もないわけです。
その点、ヨーロッパは各国で放送局が分かれていて、いくつもある放送局のうちの一つに入り込み大当たりして他国の放送局も「ほしい」となったのは大きかったですね。
――なるほど、ヨーロッパと違ってアメリカには、「国民的アニメ」のようなヒットが誕生する、放送の枠の余地がなかったと。
佐藤氏:
実際、アメリカにはカートゥーンと言われる低年齢向けのアニメは昔からあったわけです。じゃあそれに対してアメリカに入った日本のアニメが彼らにどのように見えたかというと、やっぱり「大人も楽しめるもの」というのが斬新だったわけですよ。登場人物もティーンエイジャー以上だったりするし、戦争とかの重厚なテーマも扱っていたりする。
具体的には『AKIRA』や、あと『超時空要塞マクロス』『超時空騎団サザンクロス』『機甲創世記モスピーダ』を一つの作品にした『ロボテック』などがまずは支持されていったんです。
※『AKIRA』(1988年)の欧米版トレイラー。
――ヨーロッパのときにラインナップに比べると、分かりやすく対照的ですね。
佐藤氏:
だからアメリカにおける日本アニメの立ち位置って、あえて言うならば日本の「洋楽好き」に近い感覚なんですよね。中高生で「すごい」と目覚めるコアな人がちらほらいるけど、やっぱりティーンエイジャー以上向けだし少数派……みたいな。
実際、ヨーロッパには10万人規模のアニメイベントが6~7個あるんですが、アメリカでは1~2個しかない。ただその分、アメリカは入場料が他の地域よりもかなり高額で、ゲストのクオリティが高かったりします。いまLAのアニメイベントなんかも、すごい人が集まって活気がありますよ。
――まさにコアなファン層が支えている、という感じがありそうですね。
中華系は「幼児アニメ」から浸透
――ここまでで、ヨーロッパでは「全国民が見ている」、アメリカでは「コアな大人向け」という特徴がありましたが、最後の中華系はどうなんでしょう?
佐藤氏:
一言でいうと、「幼児向け」から入ってることですね。それこそ『クレヨンしんちゃん』とか『ドラえもん』とか、あの辺がまずは浸透しているんですよ。それがやっぱりものすごい大きい違いを生んでいて、あのヨーロッパでさえ、そうした幼児向けアニメをそもそも通ってない人が多いんですよ。
――すると中華系はある意味、日本と同じアニメとの出会い方だと言えそうですね。
佐藤氏:
そうなんです。だから、今で言うとギリ『妖怪ウォッチ』を好きなぐらいの年から馴染みがあるわけですよ。で、いま中国とかで自国のIPがすごく増えていますけど、それって個人的には子どもの時から日本のアニメ作品に普通に接しているネイティブだから「アニメを作る」レベルまで到達できるのだと思ってるんですよね。
やっぱり幼少期から慣れ親しんでいるというのは重要で、例えば日本の音楽家にとっても「洋楽をネイティブに書くこと」ってものすごくハードルが高い。それは、やっぱり思春期以降からのインプットでは太刀打ちできない部分なんですよ。
90年代:転換点となった『セーラームーン』
――ここまで各地域での最初期の日本のアニメの受容についてお聞きしましたが、ちなみにその後の普及の過程で、特徴的な出来事とかってあったのでしょうか?
佐藤氏:
世界共通で起きたこととして、90年代の『美少女戦士セーラームーン』は一番大きな転機でしたね。もう中国でもロシアでも南米でも、「『セーラームーン』が私の人生を狂わせた」という話をここぞとばかりに聞きますから(笑)。例えば、今の海外のオタクの女の子とかも圧倒的にBLが人気なんですけど、アニメを見はじめたきっかけでいうと『セーラームーン』であることが多いんです。
あと、91年にフランスで『ドラゴンボール』がやってたときに、「アニメは低俗」ということで一回「ドラゴンショック」という政治的な禁止令が出たんですよ。でも、90年代の『セーラームーン』のところで世界中のオタク文化の繋がりが厚くなってきた影響で持ち直したんです。
――『セーラームーン』はフランスのオタク文化まで救ってたんですね……それにしても。一体どこが人気だったのでしょうか?
佐藤氏:
僕らからすると「魔法少女もの」というジャンルが昔からあったのでセーラームーンを見ても1つの進化・ヒット作という認識だったんですけど、世界の人からすると、「等身大の女の子がヒーローに変身して世界を救う」という話は衝撃だったみたいで。それまで、欧米系の皆さんはヒーローといえばMARVELとかを観ていて、女性ものであっても『ワンダーウーマン』みたいに「強そうなお姉ちゃんがやっぱり強い」みたいな話しかなかったわけですよ。
――先ほどから話を聞いていると、『デビルマン』にしろ『セーラームーン』にしろ、日本でガラパゴスに発展していったアニメが海外の人からしたら「見たこともない」ものだったというのが、根源的に彼らの心に突き刺さった理由のひとつであるような気がしますね。
佐藤氏:
やっぱり、日本のアニメって実に多様なんですよね。登場人物とかも日本人に限らず、欧米人やイスラム系の人も多かったりするわけです。その意味では、宗教なんかもあまり気にしないでやっているところがあるのも大きいですよ。アメリカなんかだとキリスト教の影響があるんで、「アメリカ映画はちょっと……」と言われることもあるので。
――ああ、宗教の話で言えば、以前イスラム系の女性のコスプレなんかも話題になりましたよね。
(画像提供:I.O.E.A.)
佐藤氏:
そうですね、まあ、向こうの女の子にとって制約の中でどれだけ頑張るかというのは、アニメに限った工夫の話じゃないんですけれども(笑)。
ただやっぱり、日本人はよく宗教に対して無関心だとか考えられてないみたいに言われますけど、ひとたび気を遣い始めると「あれはどうなんだ」みたいな細かい話になっちゃうので、個人的には今のままでいいと思ってます。だって、『進撃の巨人』が世界中でOKなんですよ。あの世界観で何も言われないんだったら宗教的にはだいたいクリアですよ(笑)。まあむしろ今難しいのは中国で、『進撃の巨人』も発禁になっちゃいましたけど。
90年代:イベントは大学のサークルで勃興
――ちょっとここからは海外でのイベントの興りの歴史も聞いていいですか? アニメの普及の歴史があったときに、そのどこかで、今のI.O.E.A.設立に至るまでの海外イベントの歴史というのもあると思うんです。
佐藤氏:
80年代後半〜90年代前半にぽつぽつと海外でのイベントが始まるのですが、当時って2000年のPlayStation 2が出る頃までにDVDがものすごく普及していった時期なんですよ。そのおかげで、いろんなコンテンツがリアルな人の手を通じて広がっていったんです。
そうした中で、最初期はマニアな大学生同士が集まるサークルがイベントを始めるというパターンが多かったんです。日本からコンテンツを直輸入しているアニメショップがイベントを催すケースもありましたが、結局はお客さんである大学生を巻き込むかたちになっていきました。だから基本的には、ヨーロッパもアメリカも中華系も、大学のサークルがなによりもその始まりにあったんです。
――なるほど。そうしたサークルではどのような活動が行われていたのでしょうか?
佐藤氏:
まあ『げんしけん』の世界みたいみたいな感じですよね。自然発生的に、ビデオを持ち込んで上映会やったり。そうした交流の中で、「ビデオテープの数を多く持っているやつが偉い」みたいなマウントの取り合いもあったみたいですよ。
――ああ……実にオタクらしい集まり方ですね(笑)。
佐藤氏:
するとやっぱり、日本に知り合いがいて色々送ってもらえたりする人は強いわけです。で、もはや実際に日本のコミケに来たりする人なんかもいて、そこで衝撃だったのがコスプレでした。
例えばアメリカのSF界隈なんかでもコスチュームを作る文化は昔からあるにはあったんですけど、もう昔のマルコポーロの『東方見聞録』みたいな感じで、「すごいものを見た」みたいな感じで本国に持ち帰ってくれたわけです(笑)。2000年代時点での日本のコスプレイヤーへの世界中からのリスペクトって、本当にすごかったんですから。
00年代:ネットでノウハウの共有化
――要するに、お宝DVDを持ち寄りながら、ときに本当に実際にコミケとかを見て「俺らのとこでもやろう」みたいな感じの熱量が伝播しながらイベントが盛り上がっていったわけですね。
佐藤氏:
その後、2000年代になりネットが出てきたことがきっかけで、海外のイベントは爆発的に増えていきます。やっぱりマニアの横の繋がりはどこの国でもすごく強いので、よその地域でやってるイベントを見たりしながら、相互に影響を与え合ってノウハウの共有ができ始めたんですね。
――ネットのおかげで「こうすればいいんだ」というのがより分かりやすくなった、と。
佐藤氏:
特に、ファンのマニアックな需要にも探せば実例が出てくるわけで、そこらへんでイベントの細分化も起きていきます。
そうした中で、現在に至る海外のイベントの種類は大まかに3種類のタイプに分けられます。ひとつが商業イベント、もうひとつがアメリカのコンペンションタイプのイベント、もうひとつがコミケやコスプレイベントのような観客が全員参加者となっているファンイベント。これらはだいたい混ざりあうんですけど、大まかな区分としてはその3つに落ち着いていると言えます。
今って、Anime Expoが26年、Japan Expoが19年目を迎えていて、大きいイベントだとだいたい20年くらいやってるわけですよ。すると、20年前に大学生だったオタクでそのまま大学に残り続けた40代の教授とかが出てくるんですね。実際、各地の大学の近くのイベントには、決まって関係者のオタクの教授がいるんですが、彼らと話すと長い歴史の中で「一回り循環してるんだな」という実感がありますね。
10年代:必要にかられてI.O.E.A.設立へ
――そうしたイベントの成熟みたいな流れの中にI.O.E.A.の設立経緯もあると思うんですが、きっかけとしてはどういうものだったのでしょうか?
佐藤氏:
僕は、元々90年初頭からコミケのスタッフを手伝った後、同人即売会のWebサービスを提供する会社を運営していました。すると世界中からコミケに対しての問い合わせがWebサービスを提供しているウチに来るんですよ。当時はGoogle翻訳もなかったので、「何語だよ」とか思いながらも、海外の熱意のようなものは感じていたんです。
そうした中で衝撃的だったのが、2011年の夏のパリにたまたま旅行で訪れた際に、シャンゼリゼ通りや電車内に普通にいるコスプレイヤーたちと出くわしたことでした。ちょうどJapan Expoをやってたときだったんです。見知らぬ国でこんなに熱意のある連中がこんなにもいるのかと愕然として。僕は当時ずっとオタクに詳しいつもりでいたんですが、具体的には全然知りませんでした。それで調べてみたら、もうイベントの情報が何千というレベルで出てくるわけですよ。
(画像はAmazonより)
そうした中で、I.O.E.A.の事務局長となる櫻井孝昌さんと出会ったんです。彼は、外務省の「カワイイ大使」などで2007~8年の、ある意味最も成長期であった世界中のオタクイベントを回っていたんですね。そうした年々大きくなる最中のイベントたちを見ていく中で、どうにかうまく繋げないかと考えていた。その時に私とI.O.E.A.の企画が生まれて数年越しの計画の後に2015年に設立にこぎつけたという感じですね。
――櫻井孝昌さんといえば、『アニメ文化外交』や『世界カワイイ革命』など数々の著書で、海外における日本発のカルチャーの受容を研究された方ですよね。残念ながら2015年の12月に亡くなられてしまいましたが、I.O.E.A.の立ち上げにもとても深く関わられていたんですね。