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『聲の形』は文学の最先端――人と向き合えない現代の悩みを描いた漫画を岡田斗司夫が語る

 今夏アニメ映画が公開され、話題となっている大今良時氏の漫画『聲の形』。聴覚障害者に対するイジメをテーマにしているため、内容のきわどさから初受賞時は掲載を見送られた。後に講談社の法務部や全日本ろうあ連盟と協議を重ねてやっと掲載され、読者アンケートでぶっちぎりの1位。その反響の大きさから週刊連載、映画化へと至った。

 『聲の形』で作者は何を描こうとしていたのか? そこには「文学的」な意味が? 岡田斗司夫が独自の切り口で分析する。


主人公・将也の主観世界が面白い!「×印」という全く新しい漫画記号が生まれた瞬間

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 漫画『聲の形』の作品紹介をやっていくと、週刊少年マガジンに2013年の36・37合併号から2014年の51号まで連載、つまり1年半くらい連載していました。

 主人公、石田将也が小学校の頃イジメていたのは聴覚障害、いわゆる耳が聞こえない聞こえにくい女の子、西宮硝子。ところがある日を境に立場は一転して石田がイジメられる立場になり、友達はみんな離れていく。高校生になった石田は死ぬために、自殺しようと思って硝子と会って罪の罰を得ようと彼女の元へ向かう。硝子と石田、小学校の頃のみんな、硝子の家族、みんなを巻き込んで拭い去れない過去と闘うというのがこの全7巻の構成。

 読んでいて印象に残ったのが、主人公の将也って男の子、一番最初はその耳が聞こえないヒロインの女の子を本当にイジメてイジメてイジメまくる。これだけイジメてて、1巻の後半で逆に自分がイジメられる立場になるんだよね。それで、1巻の終わりで高校生になってからその女の子と再会して関係を作り直す話なのだけれども……。もうここまできたらラストの方まで大体見えちゃうわけじゃない?

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 結局、この男の子が耳が聞こえない女の子や周りとの関係を作り上げながら、最後はイジメが解決するのか何なのか、そのような話なのだろうなというやつなのだけれども。ここまでの思いを込めた全7巻、そんな単純なものじゃないんだよ。大枠はちゃんとハッピーエンドに向かうのだけれども、すごい苦いハッピーエンドというかな、色んな意味合いを込めたハッピーエンドの方に向かっていく。

 やっぱりこの将也の主観世界が面白い。俺が一番感動したのは、この将也が周りにイジメられていて、周りがどういう風に見えてくるのかというのが、「うるせーよ!!」というふうに言って、周りの人間の顔にお前なんかいらない、お前なんかどうでもいいやつだと顔にざーっと×がついていくシーンなんだよね。

 「うるせぇよ、まずはお前、茶髪似合ってない!」で、「お前たちも似合ってないのに恋愛話するな気持ち悪い!お前は美人アピールがうざい。正しいアピールがうざい。お前ら嫌いだ嫌いだ嫌いだ」というふうに顔の上に×がずーっと乗り出す。

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「×印」という革命

 この漫画の何がすごいのかというと、この主人公の将也から見た主観世界がほとんど最後まで続くから、ほとんど大半の人物の顔に×印がついている。ついにはこのクラス全員に×印が後ろ姿にまでついたままでばーっと見えてる。これが彼の主観世界なんだよね。別にイジメられていた人が、本当にそういうふうに周りが見えるかどうかは別として、この×というの俺はすごいなと思うんだよね。「×印」というのはまったく新しい漫画記号が生まれた瞬間というふうに俺は書いたんだけれども。

 顔の上に×を乗せるのはちょっと変だと思わない? というのは、これまでの漫画だったら、こういう風に主人公が否定したい人はどうなるかというと、おそらく顔をモザイク処理にしたんだよね。もしくは少女漫画ではよくある技法で、昔から『エースをねらえ!』とかそういうやつで、主人公に対して冷たい人や何かは全員顔を描かないのっぺらぼうとして描く。顔をモザイク処理ふうにして見えないふうにするというのは江川達也とかがよく使う。つまりリアルな絵を基本としている。

 どちらにしても顔が見えないというのは人間の心理を表してるし、モザイクをかけるというのは現代の技術を表している。しかし、顔の上に大きい×を乗せるというのは完全な記号なんだよね。

 汗をかくときに昔の漫画はちゃんと汗をやってたんだけども、徐々に可愛い漫画の影響ででっかい汗をひとつ描くようになった。あれを読み取れるようになるまでアメリカの人はしばらくかかったんだって。意味が全く分からない。なんでかというと、まったく新しい漫符、漫画の符号が生み出されたから。

 それでこの顔の上の大きい×というのも、まったく新しい漫画記号が生み出された瞬間だと思うんだけども、ところがこれだけじゃない。

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単行本『聲の形』より引用

巻を追うごとに進化していく「×印」による漫画表現

 3巻になると更に進化してくるんだ。主人公が植野という女の子と話すとき「石田、私のこと嫌い?」って結構いちゃいちゃしてる感じのシーンなんだけども、×の間から目線が見えたりしちゃう。こうなってくると、これはいわゆるイチャラブに近いんだよね。お互いのことを「大っ嫌い!」というふうに言いながら、「またね」と去っていく女の子なんだけども、それもこの×の間からうっすら見えてるだけなんだ。

 この記号はこのあとその主人公が心を許した相手はこの×がちょっとズレたりする。それも「ねえ」と顔を出すときにこの×が前の位置のままにあるから顔の横にこう出たりするという遊びにもなっていく。この漫画の記号が遊びにも使うようになっていく。

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単行本『聲の形』より引用

クライマックスでみんなの顔にぶわーっと×がつくシーン、怖くない絵なのに将也の恐怖感や不安が伝わってくる

 それで、クライマックスシーンだよね。最終巻、この7巻の表紙、1巻ごとの人間関係の差だよね。1巻のときはお互い気まずそうなのが3巻でもまだ目線合わせていないんだよね。ところが、7巻ではこの目線は合わせてはいないのだけれど、お互いに分かり合っている感じがちゃんとするという。

 この最終巻で将也はちゃんと人の顔を見ようと決心する。ちゃんと人とコミュニケーションしようと決心するんだけども、それはなんでかというと、友達と一緒に作った映画の上映会をやってたと。自分はずっとその映画ができたかどうか知らないんだけども、高校の学園祭でついに上映会があって、最後まで見たときに思わずみんながパチパチ拍手してるときに後ろから「最高!!」と声をかけてしまった。

 そうしたらその映画を見てる人と映画の監督やってる友達が一斉にこちら側をばっと振り向いたと。みんなのそれまでハッキリ見えなかった顔がパァーっと見えた瞬間にこいつパニックになってみんなの顔にブワーっと×がつくんだよね。この瞬間にもう一回見えなくなるんだけども。このね、ダイナミックなその符号の展開がすごいなと思って。怖くない絵なのに将也の恐怖感や不安が伝わる。

 みんなの顔見たときに、みんなが自分をどう思っているのだろうか? みんなには自分がどんなやつに見えているのだろうか? というのが「怖い」という表現で、この顔が全部バーっと×がついてここに擬音で「ババ」というふうに描いている。この思い切りが、この漫画のクライマックスシーンだと思います。

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単行本『聲の形』より引用

作者が書こうとしているのは、漫画ばかり書いていて人と向き合っていないという自分の贖罪と解放

 つまりずっと将也がどういうふうなものか語っているのだけれども。主人公、将也ってイジメていた側の子なんだよね。イジメていて、そのイジメていた女の子が学校に来なくなって転校しちゃったから、今度は自分がイジメの対象になるのだけど、イジメられていたことのトラウマではないんだよね。

 かつて自分がイジメたことがあるという、誰にでもありそうなことをテーマにしているのだけれども、でもイジメとか耳が聞こえない人の問題というのはこの作品のテーマでも何でもないんだ。あくまでこの作者が書きたいものを書くためのガジェット、ツールにすぎない。作者が書こうとしているのは、作者自身の分身である、漫画ばかり書いている自分の贖罪と解放なんだよね。

 漫画家というのは漫画を書いて、作品に書いても救われないんだよ。宮崎駿が『風立ちぬ』を書いても宮崎駿のこれまでの人生のこれまでの罪が償えるわけではないのと同じように、あくまで作品を読んだ人が救われるだけなんだよな。

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 作者は自分自身が漫画ばっかり書いていて、人と向き合っていないというふうなことをインタビューとかでも言っているんだけれども、だからと言ってこの作品というのは作者の贖罪ではなくて、作者自身がそういう自分の恥部や暗部を出して書いて、登場人物たちの中で解放してあげることによって読者のみ解放される、読者はそれを読んで心の負担が軽くなる。

 読者自身の子供の頃やってきた、人に対してのいけないこととかイジメたこととか、イジメられたことというのが、ほんのちょっとだけ軽くなるというようなメカニズム。漫画を伝えることによるメカニズムによって、作者の自分の恥部を出すことによって語るということをやってるのが、僕は感動したんだけども。

 なかなか人には伝わりにくいと思うよ。インタビュー見たんだけども大体の人がやっぱり作者自身の体験と思っていて、作者自身の体験談としてというふうに書くんだけども、作者が一生懸命そうじゃなくてもちろん私もそういうのはありますし、漫画ばっかり書いているような暗い人ですからというようなのは言うのだけども、でもその中でやろうとしていることがね、なかなか漫画を読んだ人には伝わるのだけれども、インタビューしようとしたりする人にはあんまり上手く伝わってないみたいなんだよね。

人間の悩みのあり方の最前線を最も最先端の書き方で書くというのが文学のあり方

 それで、この間ノーベル文学賞をボブ・ディラン取ったじゃん。大揉めに揉めているんだよね。フランスの小説家でピエール・アスリーヌという人はもう激怒していて「今回の決定は作家を侮辱するようなものだ、私もディランは好きだ。だが作品はどこにある?スウェーデンアカデミーは私たちに恥をかかせた!」というふうに怒ってる作家が割と世界中にいるんだけども。

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 俺は『エヴァンゲリオン』がヒットしたときに、芥川賞はエヴァにあげるべきだとあのときから思っていて。というのは、あの時代の人間の悩みの最前線、文学というものの定義は、文字に書いて小説の形に出版するということではなくて、特に純文学の定義というのは、人間のその時代にしかあり得ない、自我の有り様か、悩みのあり方の最前線というのを最も最先端の書き方で書くというのが純文学のあり方だと思っているんだよ。

 最先端の技法というのが文字しかなくて、映画というのは何か映すので精一杯という時代があった。でも今はその人の有り様の悩みの最前線は文学のときもあるし、アニメのときもあるというふうに俺は思っているんだ。だから、ノーベル文学賞がボブ・ディランに与えられたというのはもちろん文学に対する軽視というふうに取る人も居るのだけれども、文学というのはなんだ? 純文学というものをなんだ? というふうに捉えると割と僕は納得できる話だと思っているんだ。

 それで考えるとやっぱり、あの時代の芥川賞はエヴァにあげるべきだったと思うし、今からでも遅くないから芥川賞は『聲の形』にあげるのが良いんじゃないかなというふうに思っております。

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