マックスむらいが人気の頂点で見た地獄──「私は好きなことで生きてはいけない」仕事への責任や使命感を背負って戦う生き様
マックスむらい──『パズドラ』の生放送で数多くの降臨チャレンジに挑み、ユーザーに数えきれないほどの魔法石をプレゼントした男だ。
スマホゲーム実況の基礎を作り上げたのもマックスむらいであり、今では当たり前のように放送しているスマホゲームの公式番組の流れを生んだのもマックスむらいだ。
そんなゲーム実況、配信のひとつの時代を築いた先駆者であるマックスむらい氏であるが、2020年7月20日に投稿された動画にて、自身のYouTubeチャンネルの一時更新休止を発表した。
・マックスむらいTwitter(@entrypostman)
・マックスむらいYouTubeチャンネル
自身がAppBankの社長に復帰したことによる環境の変化をチャンネル休止の理由のひとつとして語っており、決してネガティブな理由だけでの休止ではなさそうではある。
しかし、『パズドラ』のマックスむらいを、あのインターネットのヒーローだったマックスむらいを知っている側からすると、「ひとつの時代が終わった──」、そう感じずにはいられなかった。それほどに大きな衝撃だった。休止の発表を受け、懐かしさと寂しさを感じた方も少なくないのではないだろうか。
そこで、2013年から約7年間の活動にひとつの区切りが設けられたこのタイミングで、マックスむらいという男の歴史を振り返るべく、マックスむらい本人にインタビューを実施。
聞き手に、かつてAppBankに所属し「ゲームファイター」の名で活動していた寺島壽久(ゲームキャスト)氏、人気絶頂を極めた当時を知る生き証人として、『パズドラ』生放送や「マックスむらい部」にてプロデュース業務を担当したドワンゴ社員の中條Dを招集。
かつてゲーム実況の文化で人気の頂点を極めたマックスむらいという男が、どのように時代を駆け抜けてきたのか、その軌跡を振り返っていこう。
聞き手/寺島壽久(ゲームキャスト)
撮影/トロピカルボーイ
文/竹中プレジデント
──むらいさんお久しぶりです。今日はよろしくお願いします。
マックスむらい:
久しぶりじゃんゲーファイ【※】!!
※AppBank時代のライターネーム「ゲームファイター」の略。
──本日は当時の生き証人として中條さんをお招きして、ゲーム実況の時代を先駆けていったマックスむらいという男の軌跡を振り返っていければと思っています。じつはインタビューを相談したのが3日前で、ものすごいスピード感で進んでいるという。
中條D:
3日前にむらいさんにインタビューの話をしたら、明日と明後日と明明後日の空いてる時間帯はここって連絡がきて。
マックスむらい:
やるなら早いほうがいいかなって。あ、ひとつだけお願いしたいのが、むらい目線でのお話だってことだけは明記していただきたいです。私の記憶力って割と曖昧なので、盛る可能性がありますと(笑)。
──了解です(笑)。
マックスむらい伝説1:ゲーム公式生放送&魔法石プレゼントのモデルを作った
──マックスむらいと聞けば、『パズドラ』のマックスむらいをイメージする方も多いと思います。そして、今では定番化しているスマホゲームの公式生放送の先駆けが『パズドラ』であり、マックスむらいであったと記憶しているんですが、そもそもこの公式生放送はどのような経緯で始まったんですか?
マックスむらい:
当時、AppBankでは『パズドラ』のグッズ展開もしていて女神降臨のケースを作っていたんです。その宣伝で何かできないかと考えていたある日、AppBankにドワンゴの人が打ち合わせできているらしいと耳にして、これはチャンスだと思い「公式生放送やってみたいです!」と突撃したんです。
──さすがのアグレッシブさ。その際のドワンゴ側からの反応はどうだったんですか?
マックスむらい:
画質の問題であったり、放送画面のレイアウトが確立されていなかったりで、スマホゲームでの生放送じたいが難しいというのが最初の反応でした。
そこを何とかワンチャンってお願いしたところ、まずは企画書を見せてくださいと。それで企画書を書いて話を進めていくんですが、生放送には当然ながら費用がかかるんですよね。でも私たちはお金を払いたくなかったので、これまた「何とかなりませんか」って頼み込んだんです。それで生まれたのが“女神降臨”のチャレンジ企画【※】だったんです。
※期間限定で開催される高難易度のダンジョンにマックスむらいが挑むというもの。
──そんな経緯からチャレンジ企画が始まったとは。
マックスむらい:
第1回生放送は、平日の昼間、11時45分から放送が始まって、12時から女神降臨に挑戦する1時間15分の番組でした。その時の視聴者が約16万人で。
──当時のインターネット規模を考えるとものすごい数字です。
マックスむらい:
視聴者の熱量もすさまじかったし、挑戦じたいもすごく楽しかったです。
生放送後に山本さん【※】から教えていただいたんですが、ガンホーのパズドラスタジオの方々もお昼ご飯を食べながら見てくれていたそうで。一般のプレイヤーがどのように楽しみながらゲームをプレイしているのかを初めて見たらしく、めちゃくちゃよかったと。それを聞いてものすごくうれしかったですね。
※『パズドラ』プロデューサーの山本大介氏。
──ゲーム実況が今ほど盛んではなかった時代ですから、ユーザーがゲームを楽しんでいる姿じたいが貴重だったわけですね。
マックスむらい:
おっしゃる通り。その1ヵ月後の2月の中旬にプライベートで山本さんと会う機会があった際に、「前回の女神降臨チャレンジがものすごくよかった。もうすぐ『パズドラ』1周年なのでもう1回できないか」と相談があったんです。
そこでドワンゴさんに急遽相談したらひと言「いつでもいいです。すぐやりましょう」と言っていただいて、1周年2日前の2月18日に大泥棒参上の番組をやることになったんです。
──なんともスピーディーな展開に驚きです。
マックスむらい:
しかも、山本さんから、もし私がノーコンでクリアーできたら魔法石をプレゼントしますっていう大きなお土産もいただいていたんです。
1発目の女神降臨でクリアーに十何回とコンティニューしているんですよ私。でも今回は魔法石のためにも負けられない。そこで耐久パ(生存することに特化したパーティの略)を組んで、見栄えは無視して長時間殴り続ける戦法を取ったんです。
その結果、奇跡のノーコンクリアーしちゃって。大興奮のまま番組中に山本さんへ電話しちゃいました。「責任は取っていただきますよ」って。
──ユーザーを代表してクエストに挑戦し、クリアーできたら課金アイテムを全ユーザーにプレゼントする。ひとつの文化が生まれ、歴史が動いた瞬間かと。
マックスむらい:
今では当たり前の文化なのですが、当時はそういう試みがなかったこともあり、後日、山本さんは社内で怒られるっていう(笑)。
マックスむらい伝説2:4秒に数十億以上を背負っての「降臨チャレンジ10本勝負」
──大きな反響を呼んだ降臨戦生放送ですが、その中でもとくに有名なのが、『パズドラ』2周年のときの「降臨チャレンジ10本勝負」ではないでしょうか。
マックスむらい:
「降臨チャレンジ10本勝負」は私にとっても忘れられないイベントです。周年を記念する大切な日の放送のメインが私の降臨戦で、本当に気持ちが入っちゃって、挑戦中ずっと指が震えていたのを覚えています。
──2周年記念の番組のいちコーナーではなく、番組そのものがむらいさんの挑戦企画というのは、確かにすごいですね。
マックスむらい:
震えが止まらないから、普通に押すくらいだとパズルができないんです。だから突き指するんじゃないかってくらい強く画面を押して、絶叫しながら4秒間指をゴリゴリ動かしてプレイしていました。
──誰よりも濃い4秒間を過ごしている。
マックスむらい:
私は業界発展への使命感を背負っている気持ちで仕事をしていたので、その4秒に数十億以上かかっていることを背負ってのプレイなわけです。もうあのときは毎パズルごとに酸欠で視界がホワイトアウトしていました。ガチで。
──リアクションが大きいなと思いながら見ていたんですが、実際には死に物狂いでプレイしていたと。
中條D:
その日、現場にいたんですが、むらいさんの集中力を乱さないようになるべく会わないようにしていました。それくらいピリピリした雰囲気を纏っていました。
マックスむらい:
じつはこのチャレンジ中、何回もここで奇跡が起こらないと負けるなってシーンがあるんですが、その度に悪魔と契約していたんですよ。
──悪魔と契約!?
マックスむらい:
これ本当なんです。ピンチのときに、私の寿命を2週間分あげるからこのパズルを成功させてくれって、リアルに心の中で悪魔と契約していたんです。あのニコファーレのステージ上、何万ってコメントが流れてくる中で。
「2週間じゃダメ? じゃあ1ヵ月は?」みたいに悪魔と交信していると、悪魔から「その契約でいいだろう」って返事をくれることがあるの。ガチで。それで実際に上手くいく。だからね、「降臨チャレンジ10本勝負」で数ヵ月分くらいの寿命を悪魔に代償と払っているんですよ。
中條D:
その契約が理由かわからないけど、すごい運が味方していたのは確か。例えば、ゼウス戦道中の雑魚戦、火と水と木のキマイラがランダムで出現する場面で、是が非でも引きたい水属性2体を引いたり。
マックスむらい:
そう。あそこで水属性のキマイラを引かないと負けだった。もっと言えば、対ゼウスのボス戦でも落ちコンがきてなかったら負けていた。
中條D:
後日、有志の方がダメージを計算した際に、落ちコンがあったからギリギリ倒せていたらしくて。そういう奇跡が幾重にも重なってあのミラクルが起きたんだなと。
マックスむらい伝説3:人気すぎてトイレまでファンが詰めかける
──人気絶頂の当時、日常生活ってどうだったんですか?
マックスむらい:
すべてがおかしかった。「お願い!ランキング」で地上波に出演した際に、合計で20人くらいに告白されたことがあったんですが、その比じゃなかったです。
マスクをしていても、街を2、300メートル歩くだけで声をかけられて、写真を撮っているといつの間にかそこに列ができてしまい動けなくなっちゃっていました。もう何が起こっているのかわからなかった。
中條D:
当時、いっしょに行動することが多かったんですが、間近で見ていてもすごかったです。むらいさんが移動することじたい細心の注意が必要でした。歩いて数分程度の移動でもタクシーに乗って移動することもありました。
マックスむらい:
地方のイベントに出演したときも、ホテルからイベント会場まで歩いて5分程度の距離なのに、ホテルを出たらすぐに声をかけられて、イベント会場にたどり着くまで1時間半以上かかってしまったこともありました。途中でスタッフが迎えに来てくれて無理やり列を切ってくれなかったら、もっと時間がかかっていたと思います。
──まるでアイドルのような人気ですね。
中條D:
この話は有名なんですが、イオンモールのイベントで、本番前にむらいさんがトイレに行ったら子どもがついていってしまって。むらいさんがおしっこをしているところを写真に撮る事件があったんです。
マックスむらい:
撮らないでくれーやめてくれーって言いながらおしっこすることになりました(笑)。
中條D:
子どもは無邪気だから撮っちゃうんですよね。それ以来、むらいさんのセキュリティレベルがひとつ上がって、トイレは演者用のを使うことになりました。
マックスむらい:
そうそう。次からはこちらでお願いしますって言われて。本当に当時は普通に生活ができる環境ではなかったです。
マックスむらい伝説4:好きなことで生きていなかった
──そこまでマックスむらいの人気が日常生活に浸食してしまう状況で、当時のむらいさん自身はどのような心境だったんですか?
マックスむらい:
正直なところ、気が狂うかと。明日のことを考える暇すらなかったです。
先ほども話しましたが、私は業界発展への使命感を背負っている気持ちでしたので、私が降臨戦に勝つ=来月のスマホゲーム業界全体が上向くか向かないかだと思っていました。そう考えると勝敗の影響が大きすぎて、降臨戦は勝たないといけないものになっていったんです。
そんな状態ですから、降臨戦のある1週間前から鬱で仕事ができませんでした。席に座っていられなくて、オフィスの端で地面にへたり込んでひたすらキャラのスキル上げをしていました。
中條D:
降臨戦のときのむらいさんは、かなりピリついてましたね。
マックスむらい:
多分超イライラしてるように見えていたと思う。
──AppBankの社員だった僕たちも声をかけにくかったし、実際「今日は近づかないように」って言われることもありましたね。
マックスむらい:
自分の中で勝手に業界の未来を背負っていたので、本当にあのときは降臨戦しか見えていなかった。それこそ負けたら死ぬんじゃないかくらいに思い詰めていました。
中條D:
『パズドラ』生放送でレギュラー回と降臨戦回でむらいさんの目が違っていた。
──今のお話を聞くと、使命感やプレッシャーが大きすぎて、ゲームを楽しむ感情が入る隙間がないように思えます。
マックスむらい:
ないですね。本当になかった。降臨戦が終わったあとも、「今日は1日楽しかったありがとう」じゃなくて、「なんとか乗り越えられた……」でした。
──YouTuberを表すひとつの言葉として「好きなことで、生きていく」ってありますが、むらいさんのお話を聞いているとその対極にあるように思えます。むらいさん的にピュアにゲームを楽しめていた時期ってあるんでしょうか。
マックスむらい:
ない。私は好きなことで生きてはいけないと思っています。
中條D:
むらいさんそれずっと言ってる。
──なんと。
マックスむらい:
私自身はAppBankという会社としてYouTubeをやっています。その中で、好きなことだけではなく、仕事への責任だったり使命感だったりを背負って人間は生きていくものだと、そう言い続けています。
YouTubeのテレビCMは、仕事としてオファーいただいたので、であれば仕事としてそのメッセージを私は背負います、という気持ちでした。
マックスむらい伝説5:自分の役割が終わったと感じたのは『白猫プロジェクト』生放送
──マックスむらいとして頂点に達したと感じた瞬間ってどのタイミングなんですか?
マックスむらい:
マックスむらい個人としての頂点は2014年2月の「降臨チャレンジ10本勝負」だと思います。
降臨戦を勝ち続けていたとき、頭の中では『SLAM DUNK』をイメージしていたんです。山王戦で勝ったら愛和学院に負けないとダメだと。私にとって「10本勝負」は山王戦だったから、その先はどうやって負けるかが大事だとものすごく考えていました。でもわからなかったから、そのあとグジグジしちゃったんだと思う。
──頂点に達したと感じたと同時に漫画でいう最終回、つまり終わりかたを考えるようになったと。
マックスむらい:
もうこれ以上は無理だと思った。悪魔とも契約しちゃったし燃え尽きて灰になった。でも、会社はマックスむらいで回っちゃってるし、多くの人を雇用して動き出してる。じゃあ頑張らないと。みんなに喜んでもらえるように必死にやり続けるしかないとって気持ちだった。でも「10本勝負」以上は二度と無理、超えられないと思う。
──「降臨チャレンジ10本勝負」がマックスむらいとしてのターニングポイントなんですね。
マックスむらい:
そこがひとつなのは間違いない。あとは、自分自身が『パズドラ』『モンスト』に関わってきたからでもあるんですけど、他の多くのスマホゲームで公式番組が放送されて、挑戦コーナーがあって、アイテムを配って、と定番化された時点で、私の役割は終わったなと当時は考えていました。
中條D:
その話、リアルタイムで聞いていました。
マックスむらい:
もともと、大学生や若手の社会人が階段あたりで4人集まってゲームを遊ぶ。もっと具体的に言うと、『モンハン』を遊んでいるような文化がゲーム機としてのiPhoneの世界にほしい想いからAppBankやマックスむらいはスタートした部分もあったんです。ですので、『モンスト』のマルチが広がった時点で半分役割は終わったと感じていました。
そして『白猫プロジェクト』の生放送が、自分とは関係なく配信されているのを見て、ゲーム公式生放送というものが業界における発信方法のひとつとして確立したと。ああ、これで本当に役割終わったなと。
──恐らくその時期って、多くの記事メディアがAppBankとマックスむらいを目指して動き出していたタイミングだと思うんです。その時点で、むらいさんとしては役割を終えたと感じていたというのは興味深いです。