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「処女信仰の男はクズ」社会学者・宮台真司が語る”アカデミック童貞論”が快刀乱麻の切れ味

処女信仰の男は、その時点でクズの証明。女をモノ扱いしている

宮台:
 「悪貨が良貨を駆逐する」とは「表出 explosion が表現 expression を駆逐する」こと。表現したい人は「政治的な語りに見えて単なる表出に過ぎない物言い」が溢れる場には、実りを感じないので退却します。だから「悪貨が良貨を駆逐する」結果になるんです。政治だけでなく、性愛も同じです。例えば処女信仰は、価値の表現というより、浅ましさに由来する表出です。その浅ましさは「コントロール感」への固執に由来します。

 日本の「ロリコン」は大半が、ペド(小児性愛者)というより、「相手が何も知らないから自分がコンドロールできるだろう」と思うクズです。だから「処女厨」は全員「コントロール厨」です。「非処女は他の男の手垢がついたセコハン(中古品)」というのも、まっさらなものなら全面的に所有できるだろうという「コントロール厨」の発想です。これは女を物格化(物扱い)している。そうしたクズにはなぜかAKB48のファンが多いんです。

 処女厨は、コントロール志向=所有欲が満載なので、女を物格化します。物格化の志向を捨てない限り、損得を越えた内発性から見放されます。それゆえ、交換を越えた贈与に向かえず、フェチを越えたダイブができず、シラフを越えた眩暈を経験できず、フュージョンセックスもできません。そんな輩は、女に実りある体験を与えられないから、女をトリコにできません。永久に「2人オナニー」に興じていればいいんです(笑)。

 互いに相手の心の中にダイブし合った状態を僕は「相互浸透」と呼びます。相互浸透的なセックスを経験できるダイブ系は、ダイブを通じて「人が見かけによらないこと」を経験で知っているから、人を見かけで判断しない。見かけで判断する人は、女は便所女系で、男は糞ナンパクラスタ系。「相手を幸せにすることで自分も幸せになるタイプ」がおらず、自分の劣等感や不安の穴埋めに性愛を利用する輩ばかりなんです。

──大成するためには禁欲的であれという言説について
 
宮台:
 僕は高校で出張講義をするけど、「受験が近いから恋愛はいったん保留」みたいな発想を否定します。今の僕は受験時代よりも忙しいけど必死で家族生活を営んでいる。送り迎えをし、料理を作り、日曜日に一緒に出かけます。恋愛しながら受験できない頓馬は、将来仕事が忙しくなったら恋愛生活や家族生活を棚上げにするのか。「恋愛は受験の妨げ」「恋愛で将来を棒に振る」みたいな発想が損得野郎を量産します。

 逆です。恋愛を犠牲にしない範囲で勉強して入れる大学に入る。それが分相応な人生のバランスです。過去二十年で大学生の性的退却がすごく進んだけど、大学生たちに尋ねると、日本会議的な「不安を植え付ける性教育」が背景にあると分かります。妊娠の不安、性感染症の不安、将来を棒に振る不安を植え付ける。結果、高校で恋愛しているのがバレると「バカな奴」とスクールカーストを三段落ちするようになった。

 とはいえ、実は昔も、妊娠の不安、性感染症の不安、将来を棒に振る不安を、煽ろうとする、頓馬な親や教員がいました。けれど、僕らは親にも教員にも教室にも抱え込まれていなかった。そこが違う。一番大切なのが隣近所と親戚の人間関係でした。だから頓馬な親や教員がいても「しんちゃん、そんな話を真に受けてるのか? 実はな…」ってな具合で中和されたわけです。

 そういう機会がなくなって、恋愛にうつつを抜かすと受験に失敗して将来選択を誤るというストーリーを本気にする頓馬が増えた。百歩譲って、恋愛で合格ランクが下がる話が本当だったとしても、恋愛を禁欲して合格ランクを上げたところでパッとした未来は開けない。勉強や仕事が忙しいから恋愛や家族を犠牲にするというメンタリティはあってはならないからです。恋愛しながら受験するのは「いい人生」の最初の訓練だ。

 なぜあってはならないか。恋愛や家族を平気で犠牲にする人は、100%1人で寂しく死ぬからです。元実業家や元ナンパ師が身体を壊して1人寂しく死んでいく姿を何人も見て来ました。その人たちには共通性がある。恋愛と仕事が全く別のことだと考えていたこと。そうじゃない。恋愛のために仕事をし、仕事のために恋愛をする。さもないと動機付けが続かないよ。人間の動機付けっていうのは、そういうものなんだね。

 勉強したいとか成功したいという動機づけは、多くの場合セルフィッシュでエゴイスティックだけど、そうした利己的な損得動機は、病気や事故で気が弱くなると、すくに続かなくなっちゃうんですね。そうじゃないんだよ。誰かを幸せにするために——自分の大切な人を幸せにするために——勉強するんだよ。仕事をするんだよ。これから仕事をしなきゃいけないという時、愛があるからこそ、限界状況で仕事できるんじゃないか。

 仲間の存在を前提として「正しさ=仲間に貢献すること」へのコミットが生まれると言いました。その意味で「正しさ」は、交換ならぬ贈与、バランスならぬ過剰を含みます。だから「正しさのために法を破れ」という言明があり得ます。実験心理学によれば利己的動機よりも利他的動機の方が強い。利己的動機は自分が諦めれば済みますが、利他的動機はそうはいかないからです。利他的動機はそもそも過剰への志向です。

恋愛関係に“コスパ”を持ち込む人はクズ中のクズ。相手にするな

宮台:
 過去20年の性教育の中で、結局「性」が不安と結びつけられてきているわけです。それは性感染症の不安であり、妊娠の不安であり、将来選択を誤る不安です。そうした不安煽りが背景にあって、恋愛にハマるとスクールカースト急降下する状況が、この10余年、当たり前に続いてきています。他方で、うかうかしていると負け組になるぞと煽る「損得親」や「損得教員」が溢れるようになりました。

 そうした体制の中で、「恋愛はコストパフォーマンスが悪い」「恋愛はリスクマネジメントしづらい」とか、性愛を損得勘定で否定的に評価するようになってきました。でも恋愛は、損得勘定を越えた内発性の営みです。コントロールを越えた欲動の営みです。交換を越えた贈与の営みです。秩序を越えた渾沌の営みです。シラフを越えたトランスの営みです。だから性愛で定住社会の軛から解放されて、人は幸せになれます。

 性愛の領域では、ビジネスマインド的な損得勘定を手放せない人は永久に幸せになれないと決まっています。リスクマネジメントが効かず、コストパフォーマンスが悪いからこそ、性愛はコミットすることに価値があるんです。もっと言えば、言葉の奴隷や法の奴隷であることよりも、言葉の外や法の外でシンクロする=幸せになる能力が、試される領域です。その能力がなさそうな相手なら、最初から見限らなくちゃいけません。

──恋愛や性愛に興味のない人の増加について

宮台:
 増えていますね。増えているものの、「本音は違う」というところがポイントです。ユヴァル・ノア・ハラリ【※】の『サピエンス全史』を含めたビッグヒストリー系の書物の中でも繰り返し指摘されてきたことだけれど、ヒトは、感情の働きを使って絆を作ることで集団的生存確率を上げ、そのことで個体的生存確率を上げてきた動物です。仲間のために命を張るぞという感覚です。それが性愛や家族の営みを可能にしてきました。

『サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福』
(画像はAmazonより)

※ユヴァル・ノア・ハラリ
イスラエル人の歴史学者。

宮台:
 それを可能にしたのが遺伝的基盤です。潜在的には損得を越えた絆を結ぶ力が誰にもあります。力が顕在化しないのは適切な時期に適切な刺激が与えられないから。具体的には本人が愛される経験や愛し合う夫婦や恋人同士を目撃して羨ましいと思う経験です。僕らの日常は言葉と法の内側で損得交換のバランスで回っている。だから適切な経験がないと、贈与の過剰に満ちた愛の営みなど絵空事だと諦めてしまう。

 大規模定住社会は損得の計算可能性をベースに回る。だから「法の奴隷」と「言葉の奴隷」が推奨され、贈与ならぬ交換が推奨され、過剰ならぬバランスが推奨され、渾沌ならぬ秩序が推奨された。でも、大規模定住社会化は、3千年前の文字の誕生以降。小規模な定住社会化でさえ1万年前以降。ホモ属サピエンス種の遺伝的基板は「ウタから言葉への進化」を促した変異を除き、過去20万年変わっていません。

人類史をさかのぼると、“性愛をどう生きるべきか”が明確に見えてくる

宮台:
 4万年前。遺伝子の変異で「ウタから言語へ」とシフトした(認知革命)。悲しいウタを聞くと悲しくなるが(ミメーシス)、悲しいという言葉を聴いても悲しくなりません(脱ミメーシス)。だから自由に組み立てられるけど、この自由を制約すべく、ロゴスを用いる散文的思考ならぬ、隠喩と換喩を用いる神話的思考を主軸にしました。当時は150人以下の規模で移動する遊動民。法はなく、仲間意識と生存戦略だけで前に進みました。

 1万年前。既存の農耕技術を用いて定住が決断された(定住革命)。収穫物ストックを保全・継承すべく法が生まれます。法は所有を守る手段です。所有とは「使っていなくても俺のもの」という観念。物だけでなく人に対しても適用されました。それが婚姻の法です。かつてない生活形式です。だから定住を決意しない遊動民もいた。彼らは「使っていなくても俺のもの」という観念に適応しないので、定住民から差別されます。

 3千年前。宗教儀式から離れた文字使用が始まる(文明革命)。音声言語は距離の近さが前提だから文脈拘束的。ウタほどじゃないけど声や韻律や舞踊によるミメーシス(感染的摸倣)を保持します。でも文字言語は距離の遠さが前提だから文脈自由。声や韻律や動作や舞踊から無関係に「内容で」勝負します。かくして神話的思考から散文的思考に移行した。文脈自由なロゴス化が大規模定住化=文明化をもたらした。

 1万年前の定住化=「法の誕生」。3千年前の大規模定住化=「文字の誕生」。以降「法の奴隷」「言葉の奴隷」が専らになる。元々は定住化に伴って仲間を守るための法。大規模定住化に伴って管理をするための文字。仲間が目的で法や文字が手段。でも法や言語が自己目的化する。この頽落を退けるべく祝祭がなされた。祝祭で元の在り方=「法外・言語外のシンクロ」を取り戻す。遊動民が聖なる存在として呼ばれます。

 4百年前から近代化が始まる(近代革命)。近代化とは計算可能化をもたらす手続化・技術化のこと。技術とは負担免除のための自動機械化。科学技術に限りません。典型が近代官僚制。合法枠内で予算と人事の最適化を目指して役人が動く。全て手順化されているから人は入替可能な没人格です。それが可能にする計算可能性が大規模定住社会を複雑化させる。社会学者ウェーバーによればそれが近代社会です。

 でも近代には弱点があります。法内・言語内だけでは「秩序維持でさえ」できません。役人を含めた市民倫理は「法を守ること」。でも政治倫理は「法を守る営みに意味を与えるような社会を守るべく血祭り覚悟で法を踏み越えること」。「正しさのために法を破る営み」を厭わぬ者が「政治」を与える。同じく「愛のために法を破る営み」を厭わぬ者が「家族」を与える。それ抜きには、計算可能性な近代社会「でさえ」回らないのです。

 近代のこの隠れた両義性が「ギリシャ的かセム族的か」という3千年前からの対立を近代でも再燃させます。大規模定住が始まって間もない2400年前。アリストテレスが両義性を指摘します。当時のアテネは24万人で仲間を越える規模。だから戦争が起これば親しい仲間と逃げるのが倫理的に善い。でもそれを放置すれば誰もが「都合がいい時にだけポリスを利用する」タダノリ野郎になり、倫理的に悪い。二律背反です。

 だから最高善はポリスのために死ねること=損得を越えること。ポリス没落期のアリストテレスは「大規模定住(文明)の不可能性」に気づいていました。問題の二律背反はソクラテスによる一神教批判に最初に出現します。3千年前の文明革命(文字化)を一方で駆動したのが「セム族的なもの=一神教」。理不尽や不条理は神の怒りから生じる。怒りは神の言葉への裏切で生じる。神の言葉を文字に書き留め這いつくばれ。

 大規模定住化に向けた知恵です。一神教が大規模定住=文明を可能にした理由が分かります。これにソクラテスが敵対します。這いつくばっても理不尽や不条理は消えない。世界はそもそもデタラメである——僕の書名でもあります。理不尽や不条理をものともせず前に進むのが英雄だ。この構えは、紀元前12世紀からの「暗黒の四百年」と呼ばれるアカイヤ人とドーリア人の殺戮闘争を記録したギリシャ神話に遡ります。

 災厄を避けるべく神の言葉に這いつくばる営みには実存的にも二律背反がある。それを記録したのが福音書=イエス言行録。ギリシャ標準語で書かれ(イエスの母語はヘブライ方言アラム語)ギリシャ影響下にある。典型は善きサマリヤ人の喩え。強盗に襲われ路傍に倒れた男。ラビ(聖職者)もレビ人(祭祀族)も通り過ぎる。戒律に書かれていないから。被差別民のサマリヤ人が駆け寄り、宿まで擔ぎ、所持金をはたく。

 イエスが問う、あなたが隣人にしたいのは誰だと。これはミメーシス(感染的摸倣)の可能性を尋ねています。教義学的(教理的)には「利己のための利他/端的な利他」の対比です。救われたいから戒律に従う。だから戒律にあれば行き倒れを助ける。でもこれは利他か。戒律になければ放置するのに! 自分たちが救われるかどうかに関係なく思わず手を差し伸べる人こそ立派だ。損得よりも内発性が推奨されています。

 損得越えの内発性は仲間を前提とする。大規模定住が仲間を超えるから神の言葉(の文字)が持ち出される。その前提は神による救済を期待する損得勘定。それは美しくないから感染しない。だから神の言葉に這いつくばるのはヤメだ——。ならば大規模定住を放棄するのか。お前も大規模定住を既に前提にしているのに(アリストテレスの二律背反)。答えは「石つぶてを投げる者をこそ愛せ」という隣人愛です。

 信者でない方々を前に言えば、そこでは不可能性が確認されています。少なくとも「ミクロには可能でもマクロには不可能」。こうしたミクロ即ち「不可能性への投企の推奨」をロマン主義と呼びます。近代の「政治」と「家族」のボトルネックに対応して、見ず知らずを「崇高な仲間」と思い做すドイツ的民族ロマン主義と、平凡な男女を「あなたこそ世界の全て」と思い做すフランス的恋愛ロマン主義が19世紀に立ち上がります。

 哲学者プレスナーが戦間期に述べた通り、不可能性の意識がポイントです。不可能性を忘却する者(後期ロマン派)は、民族ロマン主義からナチス翼賛へと頽落し、恋愛ロマン主義からストーカーへと頽落します。頽落を回避しようとするロマン主義(初期ロマン派)だけが「政治」と「家族」をミクロに可能にします。僕は「社会という荒野を仲間と生きる」と表現します。僕らにそれ以上の営みができるか。だから性愛なんです。

 意味はもう分かるでしょう。僕らは近代文明という大規模定住を生きています。それは「法の奴隷」「言葉の奴隷」抜きには持続しない。でも「政治と家族(性愛)」を見れば分かるように「法の奴隷」「言葉の奴隷」だけでも持続しない。とはいえ、全域が計算可能化=ビジネスマインド化=損得化する流れに抗って、「政治」と「家族(性愛)」でだけ「交換ならぬ贈与」「バランスならぬ過剰」「秩序ならぬ渾沌」を保つのは不可能です。

 でもマクロな不可能性です。思い出してほしい。定住が祝祭を不可欠とする理由を。僕らが元々ミクロには「交換ならぬ贈与」「バランスならぬ過剰」「秩序ならぬ渾沌」を生きるからです。「交換&バランス&秩序&シラフ」を旨とする定住は実存的(ミクロ)には普遍的にクソ。だから「クソ社会」と呼ぶ。定住はクソ社会だから祝祭する。そして僕らの社会から祝祭が消え、性愛だけ「贈与&過剰&渾沌&トランス」の時空が残った。

「なんかわかんないけど楽しい」の“なんかわかんないけど”を大切にしてきた

宮台:
 概略の話しかできなかったけど、分かってほしいのは、人はホモ属サピエンス種が分化した50万年の歴史から見てもごく最近まで、文字言語の散文を真に受ける「言葉の奴隷」でも、法の内側を損得で生きる「法の奴隷」でもなかったこと。そして、ハレとケ【※】の交代も1万年前からで、定住革命による「法の奴隷」になりがちな状態を、刷新するために、「トランス状態で法外のシンクロ」を体験するものだったということです。

※ハレとケ 
ハレ(晴れ、霽れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)は普段の生活である「日常」を表している。

 そんな状態に入れば、平時に文字言語や法の営みをしていても、祝祭時に韻律や舞踊を伴う言葉を用いてタブーの時空でフュージョンすることで、ロゴスや法に縛られた在り方が「仮の姿」であると再確認できます。それを通じて、平時であっても「訳が分からないけど凄い」「何だか分かんないけど気に入った」といった名状しがたいものをずっと大切にしてきた。それが平時においても様々な動機づけを支えてきたんです。

 それを欠いた輩を「言葉の自動機械=クズ」と呼んできた。例えば言葉では日本人と中国人が区別されていても、そんな区別がどうでもよくなる時空がある。それが法内の損得ならぬ法外のシンクロだ。でもそこには既に2500年に及ぶ論争がある。法外のシンクロ=脱・這いつくばりを専ら擁護しても仲間を超えた大規模定住は無理。法内の損得を専ら擁護しても全体への貢献動機が存在しない大規模定住は無理。

 前者が「セム族的」=「一神教的」=「近代哲学(形而上学)的」=「カント的」=ツリー(樹)。後者が「初期ギリシャ的」=「パンテオン的」=「現代哲学(形而上学批判)的」=「ニーチェ的」=リゾーム(根茎)。思えば初期ギリシャのプラトン自身、ポリスの崩壊過程で「初期ギリシャ=ニーチェ的なもの」から「セム族的=カント的なもの」へのシフトを見せた。「詩人(ミメーシス)の擁護」から「哲人君主(イデア)の擁護」への変化です。

 確認したいのは、冷戦が終わってグローバル化に飲み込まれた後、一方で、政治における「民主政の危機」——トランプ現象や安倍晋三現象——という形で、他方で、家族形成における「性愛からの退却」という形で、僕らが直面するのは、カント的ツリーの限界=「言葉の自動機械=クズ」の問題です。クズが、政治も家族も不可能にしているという問題です。一部ではあれニーチェ的リゾームを取り戻さなければいけません。

 「カントからニーチェへ」「ツリーからリゾームへ」。この言葉は1980年代からの「現代哲学≒ポストモダニズム」ブームの中で語られ、当初は一部のインテリにしか分からなかったけど、今は多くの人が、ウヨ豚や糞フェミみたいな「言葉の自動機械=言葉の奴隷=クズ」が社会をダメにするのを弁えるようになって、事実上この言葉を理解するようになった。「クズとは仲間になれない、右か左じゃなくマトモかクズかだ」と。

 その意味で、僕の話は、2500年間全く変わらない基本原則の確認に過ぎない。「何か分かんないけど、在日なのにいい奴」「訳が分かんないけど、低学歴なのにスゲェ」といった感覚を開くこと。性愛は、「今まで想像しなかったけど、俺よりずっと年上なのにイイ女だ」みたいになれるという意味で、この基本原則への最短の扉だ。ただしロリ厨の糞ナンパクラスタ男や、イケメン厨の便所女には、決して開かれない扉だよね。

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